2019年3月14日 (木)

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

プロローグの立ち位置   

本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。

本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。
 
乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。

池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。


生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。

これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。

前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。

ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。

福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス。
 
この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。
矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。

これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。

本編、対談~「逆限定」(第三章)

で、本編の対談である。

まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。

対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。

…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。

例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。
で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。

「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。

つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。


時間と空間の本質を、生命とエントロピーのダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。

あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。

(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)

とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。

それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。

でまあ、それはそれとして。
 
とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。

存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。

 
それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。

西田の生命論理(第四章)とそれ以降

…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。
「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。
 
否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                      …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。
 
あとひとつ、特筆しておきたいこと。
 
福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。

時空論~宮沢賢治との共通性
 
第四章の続き、時間論を語る箇所である。
 
生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)
 
過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。
 
切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。
 
「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)

なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。
 

そして、どうしても思い出すのだ。
我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。

 
春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
 
絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。
 
「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」
 
過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。
 
我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。
 
賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。

 *** ***


とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。
 

「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏)

そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。

あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。   

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2018年6月28日 (木)

らっきょう

もうすぐひと月、そろそろいいかなあ、お裾分けいただいた母のお手製らっきょう、味噌漬と酢漬。

と、蓋開けたらポンと音がした。うへえいい匂い…
おいしいけどまだちょっと早いな。もう少し置いた方がきっとおいしい。
Rakkyo
それにつけてもありがたきは母の愛。

ディーン・フジオカの「モンテクリスト伯」の録画を観ながらせっせと剥いたんだそうな。これかららっきょう食べるごとに頭の中にディーン・フジオカ。


 *** ***


お母さまありがとう。
いろいろごめんなさい。こんな風にはなりたくなかった。

生まれてこなければよかったなんて恐ろしいことは基本的に絶対思わないんだけど、時折どうしても思ってしまうことはある。ここからいなくなりたい。

こんな自分は間違っている。
どうしようもないことはあるのだろうか。

考える。

ない。

だけどもうよくわからない。

それでもきっと恩寵の明日は来るんだし、なるべくしあわせにまっすぐ生きていかなければいけないというその考えを手離してはいけないと。

一生懸命考えています。

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2017年12月10日 (日)

プチ忘年会

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プチ忘年会である。

まあ単に地元で旧い友人4人と飲んだだけなんだけど。久しぶりだったからね、とりあえずそう銘打って。

いや~、みんなの都合まとめて時間や店決めたリのあれこれやたらと面倒だし、寒いなとか頭痛いな調子悪いなとか、夜出かける前ってぐずぐず考えてしまうんだけど、行ってしまうとやはり実にいいもんだ。

地元の居心地のいい小さな店で、学生時代からの友人たちと好き放題にしゃべったり笑ったりして、のんびり一緒に酒を飲むなんていうことは。

いかにも古き良き中央線沿線文化、アットホームでユルくてだらだらした気ままな店。オールドファッションなジャズとロック。山と積まれたCDに漫画本、ペタペタと映画のポスター。ほとんど高校時代の友達の部屋感覚である。

殆ど常連客だけでもってるとこだから、メニューは有名無実、事実上「これありますか~、これできますかねい。」な感じの注文でね。

「飲み物はねえ、ここにあるものからということで、」
「この自家製ジンジャーエールってありますか。」
「ええと、できるかなア…。あ、実はそれ自家製じゃないんですよ、それでよければ。」

嘘かよ。

「…んでばまあ乾杯。」
「いろいろお疲れ。」

ゆるんと飲み始める。

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ほんともう何年も会ってないはずの友人なのに、するんとあのころの気楽さに戻ってしまう。いや、あの時よりもずっと目の前のこだわりのない感じ、なんというんだろう、淡い年月の寂しさを湛えながら。それぞれの道を行ったそれぞれの現実を認め合いながら。

久しぶりにたらふく笑った。

ひととき何もかもを笑い飛ばすことのできるシェルターにはいりこんだ気がしたよ。こののっそりした懐かしい居心地の良さ。やっぱりここに住んでいてよかったな、離れられないな、中央線遺伝子が組み込まれてもう一生この懐かしさからは逃れられないのだ。

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(ほっそりと華奢な少年だったトモダチたちがさ、なんだかもう腹の出てくるお年頃になったとか、なんだかきっとこれって冗談だよねえ。)(弟よ、そこはかとなくアタシの腹部を眺めながらそういうこと言うのはおやめなさい。)

…懐かしの灯油ストーブ点火の瞬間にも立ち会った。これはほんとうにあったかい。見ただけであったかいし実際とってもあったかい。

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「これ近づくとナイロンとか溶けますから~。」
いやまあそりゃそうでしょう。

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お通しが袋入りスナック菓子とかポップコーンとかで…

「これよしお、手を出すんじゃありませんよ。」
「こいつ手癖がわるいな、よしお。」

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「食べるものありますかねえ。」
「ええと、カレーとか、タコライスとか…」

カレーは人参たっぷりだ。

三々五々、常連さんたちが来店し始める。
(彼等例外なくタバコもくもく。これには閉口。これさえなければひたすら素晴らしいんだけどなあ。)

ふらっと訪れて、でれでれと飲んだりしゃべったりする。遊びに来た友達たちな感じで、何にしろやたらユルくて親密な空気。

麦酒追加頼んだら、話し込んでる店主の代わりに常連さんが持ってきてくれたりね。

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店主はウヰスキーに詳しいらしい。たくさん揃っていて、相談に応じて選んでくれる。「インペリアルだって?なんか偉そうじゃないか。」

私はウヰスキーは今ひとつおいしさがわかってないんだけど、入門できたら楽しそうだな。

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店の隅々まで、インテリア一つとっても何かとあれこれ楽しいのだ。ごっちゃりとCDやら本やら重なってて、おそうじするの大変そうだけどな!

何だか帰りたくなくて、随分遅くなってしまった。
テンション上げ過ぎて後からどっと疲れてしまったわい。

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2017年10月30日 (月)

誕生日in川越

大晦日や誕生日前日、カウントダウンな時間帯になってくるといつも何だか落ち着かない。なにかやり残したことはないか、やっておくべきことはないか。絶対にあるような気がする、やっておきたかったことが。思い出せないことが。

…今年は金曜日。当日は姉がわざわざ休みを取って川越に招待してくれた。いいとこだよ、おいしいお蕎麦ご馳走してあげるよって。

ワー。

川越って素敵なとこだというので行ってみたかったのだ。ありがたいなあ、ありがたいなあと甘えてしまうことにした。姉のアテンドでいざ川越アドベンチャー。

 *** ***

当日は、奇跡のように素晴らしい晴天に恵まれた金曜日。
(これで一年分の幸福は使い果たしたかも…。)

母と姉と三人で気楽なもんで、こういうのはいいもんである。連れてってもらったのが古民家カフェならぬ古民家蕎麦屋。非常に素晴らしいナイスな蕎麦屋である。さすが我が姉のセレクト。
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編みねこもミノムシにして連れてってやったのだ。
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新蕎麦だと聞き喜びに舞う二匹。
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創作料理もとっても気が利いてるのだ。日本料理ってやっぱりなんて上品でおいしい美しい食べ物なんでしょう、としみじみ。

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蕎麦懐石。

先付は嶺岡豆腐(牛乳と白ゴマを葛でよせた店のオリジナル秘伝レシピだそうな。白和えの和え衣部分が固まったようなイメージの食感。)わさびが効いて、なめらかでこくがあって大層な美味。出し巻き、豆腐田楽も上品な味付けに感動。きのこの葛あんよせ、このあんの絶妙のだし加減と生姜の香りが、その、ナンダ、料理人のおセンスなんだろうなあ。

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お吸い物はふたを開けたらふわあっとあたたかい出汁と柚子の湯気の香り立つ幸福な一椀。お正月の、母の拵えるお雑煮思い出すんだな、この柚子の香りのお吸い物って。

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玄挽き蕎麦は残念ながら新蕎麦じゃないということで、少ししょぼみつつ、でもいいの、野趣あふれる玄挽きセレクトに悔いはない!の顔。

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透き通って輝く更科の方は北海道産の新蕎麦だよ。(ちっちゃいポケットカメラでそそくさと撮るのであの透明感がうまく撮れてない。)(くやしい。)

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天ぷらは、野菜やスズキとキノコのはさみ揚げ。これがだな、熱々で、サクっと音がしたのヨ、ほんとに音がしたの、サクって。ウチの天ぷらはふにゃっていうよねえ、などとしょうもないおしゃべりでたわいもなく開放感。ファミリー女子会である。

デザートはひんやりした蕎麦の冷製、葛よせ、小豆餡。
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姉「これ、サイコー…」

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(窓からの風景、蕎麦屋中庭)

いやあ、お天気に恵まれて、目に入るものすべて大層うつくしく輝いて見える平和な秋の日、なんだかほんとうに、ありがたいこってす。

 *** ***

午後は、氷川神社で七五三のめでたく可愛い風景をたくさん見た。

両親に手を引かれるめかしこまれた幼子というのは実に愛らしいものである。存在するだけで無条件に愛されている、このような存在が世界を優しいものとするたったひとつの救済なのやもしれぬ。

彼らがかっこいい巫女さんに伴われて神主さんに祈祷してもらってる風景も見たし、様々な思いをもっておみくじを引く老若男女、はしゃぎまわる修学旅行生の群れの中を平和に歩くこともできた。樹齢600年のご神木にもぺたぺた触ってきた。
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そして川越の観光メインストリート、菓子屋横丁。
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ここは大変たのしいとこである。名産の芋があふれておる。イモだらけといってもよい。ということで、店頭看板の「おいものビターなカフェラテ」に正しく引き寄せられた。

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ひとやすみでお茶。ちなみに姉と姪っ子は「芋娘」としてその芋好き(サツマイモね、甘いヤツ。ヤマイモやジャガイモやエビイモじゃなくて。)っぷりを広く知られてものである。

ちょっと大正浪漫な和風のたたずまいの仏蘭西料理屋「初音会館」の別館カフェ。窓の外は昼下がりの陽だまりに憩う人々の風景。ビターなエスプレッソに焼きいもアイス。これをサクッとしたゴーフレット様や芋チップスですくって食べた後は無糖のカフェラテ部分にくるくる溶かし込んでおいしくいただいてしまう楽しいおやつスタイルである。

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楽しいおやつは結構な正義だと思うな、オレ。

お姉ちゃん、ほんにありがとね。

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2017年8月24日 (木)

のぶお&さだお@クルミドコーヒー

しばらく続いていた雨がやっと止んで、途端に猛暑が戻ってきた日。

久しぶりにクルミドコーヒーで母と待ち合わせた。

せっかく可愛いカフェ行くんだから、新しい編みぐるみも連れてって写真撮ってあげよう、とおっちゃんうさぎ三兄弟を取り出しだ。が、長男よしおを抱き上げた際、彼の大きさに、一瞬、ひるんだ。

…今回はコンパクトなのぶおとさだおだけ連れて行こう。

Kurumie
やっぱり素敵だなあ、クルミドコーヒー。

Kurumi_2
窓際の席に陣取る。開放感のある大きな窓。緑と金の木漏れ日。

Kurumin
お店は大きなエノキとヤマボウシに抱かれた形。可愛い巣箱が設置されている。(住民はいないようだ。)(誰か棲みついたらいいのに。小鳥が出入りしていたらきっと楽しい。)

(母と、何の木だろうねえ、もしかしてクルミなのかな、と話をしてて、注文を取りに来たお店の方に、「何の木ですか?」と尋ねてみた。すぐに答えてくれた。ここのスタッフの方はみんなとても感じがよくって、楽しんでお仕事をしている感じがするんだな。このお店が好きで、誇りに思っていて、何を聞かれても答えられるくらいお店のことを知っている、っていう、なんかそういう気持ちのいい頼もしさがあるんだよ。)

Kurumiw_2
このあたたかみのある可愛らしいインテリアが大好き。

Kurumil_2
解放感のある吹き抜け。中二階の秘密の隠れ家風の席が好きなんだけど、一番人気で競争率が高い!黒板には、今日はブルーベリーの絵。

Kurumiww
おひとつどうぞ、といつも胡桃がおいてある。これが楽しみなのだ。国産の。小さくて固くて、でもとっても味が濃くておいしい胡桃。

Kurumiw
割るの大変。キノコ型のくるみ割りで頑張って割る。

Kurumiw1
これをスプーンで苦労してほじくりだすんだよ…。(しかしほんにうまい。)お店のスペシャリテ、水出し珈琲のおともにもぴったりだ。

Kurumi1
熱々のクルミドケーキに特製アイスクリームのっけたおやつ。

アイスクリームは好きなのを二種類選べる。(母が選んだのは、木の実と抹茶。)カリカリ香ばしいアーモンドプラリネもたっぷり。

熱々と冷たいのが楽しいおやつだから、溶けちゃわないうちに慌てて食べなくてはいけないのだ。

Kurumi2
柔らかくなってきちゃったら、アイスクリームをケーキに塗り付けて食べる。

「熱々とつめたいの、合うわ~。ケーキもアイスも、それにカリカリアーモンドもすごくおいしい!」だって。

Kurumit_2
ほんに居心地のいい場所だねえ。

のぶおとさだおも風景にしっくり溶け込んで、お店のインテリアと化していた。

お隣の女性二人連れから「可愛い!写メしていいですか。」と、人気アイドルになった彼らである。

Kurumis
レジ脇の、このスペースいつも気になる。子供が絶対入り込みたくなる穴倉空間。(私も入りたい。)

帰ったら、よしおが拗ねていた。
Kurumil
ふたりだけ素敵なカフェに連れてってもらって、アタシはひとりお留守番…

ごめんネごめんネ、よしお兄ちゃん、機嫌なおして。今度は三人一緒にお出かけしまショ。

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おっちゃんうさぎ三兄弟制作過程

久しぶりに何か新しい編みぐるみを編もうかな、と始めたんだけど、何だか支障が多くてトラブルだらけ、意外と苦労したうさぎ三兄弟、やっと編みあがったので記録をば。
当初の企画としては、全身ピンクでオレンジの水玉用のお洒落ウサギ、という予定だったのだ。
が、思いがけず糸が足りなくなって、まずここで頓挫。
 
のろのろと継ぎはぎ企画に組み替えて、形にする。んだけど、ここで、ああでもないこうでもない、と失敗が多くてやんなっちゃったのだ。モヘアはほどいて編み直しっというのがきかないから、試し編みがみんなムダになってしまうので、失敗の時のストレス度が高いのだ。
ようやく形になったとこ。
Usa0
形が見えると少し楽しくなってくる。
顔拵えるのがまたハードルなんだけど、どうにかこうにか愛らしいおっちゃんうさぎに。
苦労した分なんだか嬉しい。
Shoes
少しでも可愛く、と思っておでかけバッグと靴もこさえてあげた。

「…それちょっと貴殿には女子すぎるんでないか?」
「うんにゃアタシにぴったりデショ。」

Usa3
おっちゃんうさぎ生まれて喜ぶのポーズ。((なんとなくおっちゃんぽいのでおっちゃんうさぎね。意味はない。)
 
Usa
なんだかひとりじゃつまんないワー

…トモダチ増やしてくれる?

Beige
…ということで、おっちゃんうさぎ第二号。
一号よりちょっとこぶりの地味なおっちゃん。
Usaparts
早くできないかなあ、可愛いアタシの弟。
 
Brother
ちっちゃいな、可愛いな、弟よ。うんと愛らしい顔とお洒落なお揃いファッション拵えてもらうのヨ~。
 
Parts
地味すぎるって一号が文句言うから、身体にシックな水玉模様デザインをアプリケしてあげる。
 
Bag
小物もうんとシックにね。
 
さあ生まれたぞ。嬉しいねえ、仲良し兄弟。
Usa2f
ヤーネー、あのカエルったらお洒落な靴もバッグも持ってないのよ、あれじゃお出かけなんてできないわネ、二号ちゃん!
ホントね~、一号にいちゃん、やっぱ靴とバッグよね、お洒落で大切なのは
(…うるさいなあ、ボクちゃんとかっこいい蝶ネクタイしてるんだぞ。)
2usa
週末には二人お揃いおめかしして伊勢丹にお買い物にでもでかけましょうか?
…と、一号と二号っていうのもナンなのでここでお名前募集。
三兄弟になる将来の予定を漏らしたら、バッチグーなネーミング、埼玉のMさんよりつけていただいた。
「よしおのぶおさだお」
さ、最後の兄弟制作にかかるよ。
3frere
ボディができて、大切なのはここからヨ。
三人目の兄弟(でも中ぐらいの大きさだからきっと次男になる予定)、のぶお。
アタシたちみたいにお洒落で愛らしいおっちゃんうさぎにするにはどうしたらいいかしらネ…愛らしさあふれるひとみに可憐な口元、カラフルなボディの刺繍とお洒落な靴とバッグが必要ね。(お洒落番長♡よしお☆さだお♡)
と、ここまできてまた頓挫。
のっぺらぼうのまま随分ほっておいてしまった。
Cherry
さくらんぼや枇杷や桃の季節を過ぎてゆき…
 
そろそろ無花果が出始めたころ、ようやく仕上げにとりかかる。
Bag_2
のぶおのお洒落な靴、アプリケ途中のバッグ。本体より先に小物から攻めるのだ。外堀から埋めてく作業。
Parts_2
ボディはやっぱりポップな水玉模様にしてあげよう。
3
揃った~!おっちゃんうさぎ三兄弟。
 
3usa
左から、長男よしお、次男のぶお、三男さだお。
レッツお出かけ連れ立って街に繰り出すの図。
♪おでかけしまショ、そうしまショ~♪
(替えのバッグや靴も拵えてあげようかなあ。)
 

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2017年8月21日 (月)

台湾料理

ものすごーく久しぶりの友人たちと台湾料理屋で待ち合わせた。
 
ものすごーく久しぶりなんだけど、なんだか、なんていうかなあ、変わらないようで変わったようで。なんかね、みんな若い時よりずっとずっと話が柔らかくて深くて優しくて可笑しいのだ。(これでは意味不明であるな。)
 
大学や高校の友人って不思議だ。何年かぶりでもまるで昨日あったかのように、そしてたとえ何十年かぶりでも、すぐにあの頃に戻れてしまう。
 
きっと一生そうなんだな。
 
人生いろいろなんだよね、っていうひとことがこんな風な形で通じあうのってすごいなあと思うのだ。生きてるだけですごいってこういうことなのかな、などと思ったんであるよ。
 
新宿駅近くのちいさな台湾料理屋さんで、お店を手配してくれたSちゃんが「ここは小籠包がうまい!」とお気に入りらしい。
 
ということで、まずとにかくはこれだな。
Syao
小籠包は熱々をふうふうあちちって食べなくちゃダメなんだよね。
 
Nasu
蒸し茄子とか山クラゲとか皮蛋、大根餅、魅惑の点心たち。
 
Pitan
ちいさな店だけど、とっても賑わっていた。旨い店なのだ。
世のサラリーマンたちの、これから夏休みで週末でっていう、ほっとしたゆるみで賑わう世界の空気に包まれる。実にまあこういう居酒屋文化ってはいいもんだ。
 
Niku
ご飯ものは、ルーロウファン。ひき肉かけご飯。
 
届いたやつをT君がいきなりスプーンでぐしゃぐしゃとかき回したため、
「ちょっと!私も食べるんだから取り分けてからまぜてよ!」
とSちゃんからの非難の叫びを受け、その後こんこんと会食マナーを諭されることとなったお店お勧めメニュー。
 
台湾料理って日本の家庭料理に似てて、尚且つ独特の香辛料や味の濃ゆさがあって間違いなくおいしい、って雰囲気が漂っている。みんな麦酒がススム君系。
 
最後に甘いものもちゃんとそろってたよ、熱々揚げ胡麻団子とか杏仁豆腐とか仙草ぜりーとかね、
 
 *** ***
お互いのいろいろ苦しかったりしたことなんかもあれこれ話してしまう。
笑いながら励ましてくれる。励ましたくなる。
なんだかんだ、みんな優しい。
 
ありがとね、あれこれ聞いてくれて。
(しかしこうくたびれてしまうのではアカン…もちいとパワーが欲しい。まあないものねだりだな。)(中学生の時からおばあちゃんと呼ばれていたのだ、そういえば。)

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2017年8月20日 (日)

「この世界の片隅に」こうの史代

原作には甚くヤラれていたのだ。
うっかり油断して読み始めると痛い思いをする漫画である。
「夕凪の街 桜の国」とセットで原作への感想はここでちょっと書いた。
これがクラウドファンディングで映画になったという。アニメーション。なんか周囲の人々が激賞してるし世界中でやたら評判がよくて、あれよあれよという間に話題になって賞かなんかまでとってしまったらしい。
映画館でも観たいかなアなどとずうっとぐずぐず思ってたのに、やっぱりなんだか行きそびれてしまった。

ということで、オンライン試写会、ぽんと飛びついたんである。おうちでポチ。

夜部屋で酔っ払い状態でさあっと観ただけだから、原作もみちみち読み込んだわけじゃないから、責任のないおぼろな記憶からの印象だけど、なんかこのまま忘れてしまうのもかなしい。一応ちょっと思いついたことひとつメモしておきたい。

原作と映画とのちょっとしたアプローチの違いのようなものについて。

…アニメーション映画が、その性質を活かして、原作とは違うバランスで物語の特質を見出させうるという、その媒体による手法について思ったのだ。

主人公のすずさんが絵を描くという行為の強調、そのクローズアップのことである。
絵を描く行為が、物語行為になっているというのだという製作者(原作の創造的読者)の明確な認識。その感覚を感じたのだ。

それは、すずさんの描いている絵が映画の画面の現実と等価な風景として描き出され重なっていくという映画的な技法、いやむしろ現実を凌駕する、現実(という物語)を作り出す、という「世界認識(創造)」の技法として見出されるもののことである。

この映画の中では、時折、現実がすずさんの描く鉛筆や水彩的な絵画のようにして描かれる、タッチが変化する瞬間が挟み込まれている。

絵となった世界。すずさんの眺める世界。

それは、すずさんが世界を読む方法。それは、世界をうつくしいものとして読みとろうとする、あるいは読みかえようとする方法論。そしてそれは、いわば彼女がよりよい人生を生きるためのメソッドを我々に示すものとしての表現なのではなかったか。

原作では取り落としがちであるこの要素を、アニメーション映画は大きなテーマとして拡大強調してみせる。

すずさんの描くもの、それはまた、ありえたかもしれない人生の「もしも」の世界でもあった。限りなく分岐する運命と、たった一つの現実という残酷と切なさとかけがえのなさを映画は語る。

一枚の絵に収められていったものは、あきらめられた夢の墓標、果てしない物語の夢のイコン。日常を支える豊かな世界の豊饒を、心の中にそれは創出する。決して一つの世界に閉ざされることのない解放をいつでも胸の奥に秘めていられるように。

これが非常に顕著に表れているエピソードがある。初恋の幼馴染と婚家の納屋で二人きりのひとときを夫から与えられる、非常に危うい場面である。寄り添い、お互いの過去の思いを伝えあう二人。

運命をただ従容として受け入れ、あきらめてきた過去に描かれたほのかな夢、一枚の夢。穏やかなあきらめとともに、与えられた運命に応じてきたすずの人生である。その中で、その場に応じた夢をせいいっぱいうつくしく描き続けようとして生きてきたけれど、やはり決して取り戻せないものへの思いはある。その切なさと、そしてしかし今選んだ道(夫への愛、周りへの愛)のかけがえのなさの、ふたつの心。己の中にうずまく激しいその両極の感情のやるせなさに耐え切れず、すずは泣くのだ。

すずさんの描くものは、五感と日常、そしてそのファンタジー(民俗的異界感覚)から生まれる、日常と命に直接根差した物語。それは例えば冒頭の、妹に絵物語にして語る、子供の頃に妖怪にさらわれたエピソード、未来の夫に出会うファンタジックなエピソードである。怖いのに、どこか親しみがあってあたたかい、民族的な異界、すずさんの住む世界、描く世界。

或いはそれは、いわゆる現実との二重の風景をなす。
時折なめらかなアニメーション画面がすずさんの描く手描きの絵のタッチとなって切り取られる、アニメーション映画ならではのそのしかけを、我々は一枚の絵画として心の風景に収納してゆく。

厳しい現実の戦争は、国家間の正義の物語は、目の前のやるべきことをこなす末端の日常に影響を及ぼす限りの出来事としてしか認識されない。お砂糖の配給がなくなる、お砂糖を大切にしながら失敗するが、それもあたたかな家庭の笑い話の一コマに変換されている。それは、唯々諾々と、ただ環境を受け入れる大衆の日常。政治も権力も国家の正義もない。与えられた運命があるだけだ。

物語とは論理である。言葉により、絵画により、音楽によって、五感によって成り立つ無限に生成される可能性を持ったロゴス。

それは、大きな物語、小さな物語。個別の物語、権力や倫理の描く物語。

*** *** 

そう、このアニメーション映画の中で原作から特化して抜きだされ強調されているのは、描く絵によって現実が認識定義される、という構図、その論理だ。アニメーションならではの鮮やかに躍動する表現力がここでより生きる。強みとなる、…ということを作り手は意識しているのだろう、と冒頭で述べた。それは一体どのようなかたちでか。

それは、例えば小学生の時の写生大会のあと、初恋の少年とともに見た海の風景、その白波にあそぶ海うさぎ。すずが描くことによって海にうさぎが飛びはねる世界の躍動が真実となる。その論理構造ががうつくしいアニメーション映像によって表現されている。

世界が、物語がそこに生まれるのだ。原作においてこれは言語と絵画によって表現されるものであり、動きとは読者の頭の中で行われる作業であった。アニメーションは読者の(少年の)脳内の風景を外的な視覚として直接画面に映し出す。少年は、その絵を見て嫌うべきだった海が好きになってしまうのだ。

海は美しいものとして読みかえられる…現実は芸術を模倣する。

すずさんの日々は、いつもそうやって描き続けられてきた。

だが、戦争の残虐さは、ついにその限度を超える。爆撃で姪っ子と右手(絵を描く手、物語を、夢を紡ぐ力)を失うことによって、救いを失い、いままでただただすべての理不尽をしなやかに受け入れてきたすずの心に、周囲の残酷な状況がナマなかたちで襲いかかり、裏の心、不条理への疑問が芽生えてくる。「どうしてよかったなんていうんだろう。」もう世界の醜さを読みかえる力がない。
そう、戦争は何もかも叩き潰す暴力、徹底的な絶望だ。そして、だが、この物語には救済が仕掛けられている。

戦争は終わるのだ。

過去に失われたものが未来からやってくる。「もしも姪っ子と左手を繋いでいたら」、の、その「もしも」がやってくる。爆撃の際、左手を繋いでいた母子の人生とのクロスオーヴァというかたちで。

母は片手と命を失い、子供だけが助かるという別ヴァージョンの物語をもった母子から、それはすずのところにやってきた。失われた姪っ子の代わりの戦災孤児となってすずにしがみついてきた子供。

お互いを求めあう、支え合う。そんなかたちの救済。失われたものが、「もしも」の物語の世界が、未来の現実となって別の命の形で補われ再生してゆく。

このラストは、失われるべきではなかったものの、その悲劇を、かけがえのなさを激しく怒り悼むとともに、決して未来をあきらめない、永遠に「普通」の日常の、日々の幸福と慈しみあいを続けてゆこうとするひとびとの、再生と救済の物語となっているのだろう。

そのしたたかさ、ひたむきさ、純粋さは、あるいは吉本隆明が戦後「大衆の原像」と呼んだひとびとの姿と重なるものなのかもしれない。

…と、なんだかね、そんな風なことを思ったんだよ。

蝉が鳴いて、西瓜を食べて、お盆が来て、そうやって、今年も8月は過ぎて行く。

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2017年8月16日 (水)

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

プロローグの立ち位置   

本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。

本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。

本編では、福岡氏が、読者と同じ立場、哲学門外漢としての立場から、哲学専門である池田氏の西田理解について質問する、というスタイルをとっている。池田氏の語る難解な西田独特の述語に関しては理解できるまでそれを徹底的に質問攻めにし、読者に寄り添いながら西田哲学を読み解いてゆく。彼のこの態度が、やはりこれ自体も難解である本書を読みぬくための案内の役割を果たしている。

乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。

池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。

生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。

これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。

前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。

ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。

福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス。

この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。

矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。

これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。

本編、対談~「逆限定」(第三章)

で、本編の対談である。

まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。

対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。

…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。

例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。

で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。

「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。

つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。

時間と空間の本質を、生命とエントロピーのダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。

あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。

(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)

とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。

それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。

でまあ、それはそれとして。

とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。

存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。

それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。

西田の生命論理(第四章)とそれ以降


…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。

「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。

否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                            …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。

あとひとつ、特筆しておきたいこと。

福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。

時空論~宮沢賢治との共通性

第四章の続き、時間論を語る箇所である。

生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)

過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。

切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。

「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)

なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。

そして、どうしても思い出すのだ。
我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。

「春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」

絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。

「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」

過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。

我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。

賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。

 *** ***

とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。

「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏)

そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。

あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。 

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2017年7月18日 (火)

にんげんのこわれるとき

Haru

大学時代、すぽんと賢治にハマって、卒論も修論もテーマは賢治だった。

(漱石と賢治、春樹が好きとかもう何だかギョーカイ内では安っぽいミーハーちゃん扱いである。ゼミではみんな結構いかにも自分文学好きだぞな玄人っぽいシブイ作家を取り上げてた。永井荷風とか谷崎潤一郎とか横光利一とかさ。)

確か修論は「小岩井農場」を中心に論じた記憶がある。

長詩である。(賢治に言わせると「心象スケッチ」な。)賢治独特の、日本では珍しいタイプの長詩。ダダイズム風の実験的なスタイルをもっている。(賢治はダダの影響も受けていて、「春と修羅」随所に視覚的な文字列の配置の工夫などもされている。実はカレって結構新しもん好き、実験好きなひとなのだ。)

あれこれ考えごとしながら小岩井農場を歩いてく実況中継的なスケッチ風の詩なんだけど、(実際に手帳にメモを書きつけながら小岩井農場を行ったり来たりしたらしい。)ごく普通の周囲の情景描写から、心の中に浮かぶ回想や想像、独白が入り混じって主体が分裂してゆき、だんだん幻想世界に移行していく過程がぞくぞくするほどエキサイティングなのだ。ひとが狂っていく過程もこれと似たようなものかもしれない、と思ったりしてね。

で、好きな言葉がある。(いやたくさんあるんだけど。)
 「幻想が向ふから迫つてくるときは / もうにんげんの壊れるときだ」

自我解体の危機に瀕した葛藤のシーン、クライマックス。

ここの解釈は本当にいろいろな説があっておもしろい。

見田宗介の「宮沢賢治」が大好きで、これで賢治にハマったようなもんなんだけど、ここでのその解釈は奮っている。得てして否定的にとらえられがちなこの「にんげんがこわれるとき」という意味を、この箇所を、あえて非常に肯定的にとらえているのだ。「にんげん」を「自我」としてとらえて解釈する。するとこれは自我解体の恐怖を意味することになる。が、それと同時に自我という牢獄からの解放という至福の時空への移行、この反転の意味を読み取ることもまた可能となってくる。彼はここを論の中心点として捉える。

この人の賢治はすごく魅惑的な解釈で学生時代はすっかりまるごと飲み込んじゃったんだけど、今ちょっと見てみたら、ここでは自説に引き付け過ぎていて、多少論理に強引さと無理がある。いやまあそれはそれでそれとしていいんだけど。この人のこの本の論理構成を成立させるには仕方ないとこだから。

…漱石の「行人」に、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの3つのものしかない」という一節がある。「死か狂か宗教か」耐え難いこの世の業の苦しみ、自我の苦しみから逃れるための三つの選択である。

これは、「自我という牢獄」という視座をもっており、それは問題意識として先の見田宗介のものと一致している。死も狂も宗教も、「解脱」、すなわち牢獄としての<自我-この世>からの解放、自我放棄のための手法だからだ。

?賢治は、「小岩井農場」に於いて、分裂してゆく自我をそのまま表記し、五感が捉える外界風景と意識の内面のイメージが入り混じり溶け合うテクストを織りあげる。これが「心象スケッチ」という手法である。これによって、言葉の多元宇宙を出現させたのだ。すなわち文字通り「異議を唱え合うエクリチュール(ロラン・バルト)」の場を生成、バラけた自我をバラけたままに記述認識する。

そしてここからだ。ここでは、その混沌が極まったとき、全体の向かう方向性を敢えてトータルにコントロールしていこうとする新たなメタレヴェルの主体を発生させる仕組みが読み取れるのである。これは一種戦略的なエクリチュールのスタイルとすらいえるのではないかと私は思う。

この試みを、先の「死か狂か宗教か」の論立てにあてはめてみてみよう。

移りゆく時間と風景を眺めながら歩行する現実の主体を外枠にもちつつ、同時にそこから離れ遊離した意識の内面で、回想や宗教的な論争を繰り広げる分裂した複数の主体(自我)=多重人格という構図を織り上げる。そして現実意識を凌駕してゆく内面の幻想領域、という「狂」への危機的状態をつくりだしていく(或いは「(幻想が)向ふから迫つてくる」状態 )。

そしてこのクライマックス、ラスト近く「にんげんがこわれるとき」現れるのが次なる段階としての超越者的な声である。この声は、最初ちらほらとあらわれ幻想を警告する小さな声としてテクストの中につぶやきはじめ、そしてこのラスト部分にすべてを覆うようにして突如大きく膨らみ他を凌駕し統一し、高らかな意志の声でこのテクストを語り終えようとする一つの主体である。

 《もう決定した そっちへ行くな
      これらはみんなただしくない
      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
      発散して酸えたひかりの澱だ

ただしくない「これら」とは、対立しあい混迷する複数の主体の見ている複数の幻想風景、多様な意見のことである。エクリチュールのカオスな動きの中で、残虐な現実側の回想に捕らわれ自我の業に苦しむ主体(具体的な人間関係の軋轢の回想、妹を失った悲しみのフラッシュバック)、そしてそのアンチテーゼ、現実世界を嘆き否定し理想世界への解脱のみを願う主体(幻想の美しい仏教的天上世界のイメージ)を共に否定しながら、それらを止揚したメタ次元として、双方が「ただしい」かたちで存在する世界に向かおうとする。これはそのかがやかしい宗教に裏付けされた新たな外界現実に立ち戻ってゆこうとする強い意志の発揚である。

さあはっきり眼をあいてたれにも見え
   明確に物理学の法則にしたがふ
   これら実在の現象のなかから
   あたらしくまっすぐに起て

業の苦しみに満ちた現実世界、そしてそれを否定する形での遊離してしまった「宗教」的幻想。それらをすべて解放して言語化し、その分裂した人格としての場「狂」を経るかたちで再びまったくあたらしい現実へと差し戻してゆく構造。ある意味これは「死と再生」のミッション。すなわち、祝祭(ハレ)から日常(ケ)再創造、或いはあらゆる宗教に示されている終末思想と相似の関係構造をなしている。

死と狂と宗教(にんげん《自我》の壊れる場所、或いはそこから解放される場所)。エクリチュールはこれら自我からの解放のミッションをなぞる。そしてけれど自我ー主体崩壊ー死という破滅のかたちには流れない。「にんげんのこわれる」ぎりぎりのところでジャンプを仕掛ける。このミッションによる新たな自我の獲得、ミクロな自我を克服した、マクロな超ー自我による世界イメージというステージの獲得への誘導の構造を構築するのである。

「ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」

心象スケッチというエクリチュールの手法によって、「ちいさな自分」ちいさな自我からの解放のツールとしての「死と狂と宗教」の取り込み、そしてそれが「生」と対立しない高次元の場で再構築された自我と世界の関係性、そのような大きな自我観へ至るための誘導が行われている。

それは、賢治の目指した「物理学」と「実在の現象」を統合した「ただしい」宗教の姿として謳われた。

…思うのだ。

これは、これこそは、もしかしたら彼が「農民芸術概論綱要」で主張しようとしたひとつの「芸術」(この詩の場合、エクリチュール)の姿そのものだったのではないだろうか。現実の読み替え、救済のツールとしての宗教=芸術である。


 *** *** ***

この長詩は、このように新たにトータルな形での宗教と現実を踏まえて進んで行こうとする意識の流れの記録、自我の苦しみと業をコントロールしていこうとするその心の道行きであるといえるだろう。

書くこと、エクリチュールを為すことの意味は、それが自己救済の手法であるところにある。あるいはそれはひとつの祈りのかたち、そのスタイルである、と言ってもよい。(卒論の方では、確かこのことが言いたかった記憶がある。書くことは祈りである、というような。忘れたけど。)

小岩井農場は長いんだけど、とりあえずラスト、クライマックスの「パート九」だけならそんなに長くない。ここに全文載ってます。

…でね。

こうやって力強く高らかに理想論を謳った後、最後の最後に凡夫としての「ちいさな自分」に戻るような、まっすぐでありながらもほんのりと揺り戻し的なイメージを持つラストがある。
大きな意思にみたされた高い次元を感じながらも、低いところにいる小さな個は決して失われない。

テクスト内での語り手と登場人物の視点の自在な移りかわりを利用して成立する「ちいさな自分」が見る風景とその主体を客観化して眺める、鳥瞰する二重の風景。この、めまいのするような視点の多重を利用したこの風景の深み、うつくしさは、常に大きな宇宙の中で「透明な軌道をすすむ」ひと(自分)を感じながら、現実のしがらみを生きる、現実の美しい風景を愛する小さな自分を感じ続ける双方への生命賛歌、世界賛歌への祈りからくる。そしてここに示される、切ないようないたましさと、ほんのりしたあきらめに似た優しさに満たされたものである高みへの意志。

この詩情、ここが好きなんだな、オレ。もしこれが詩としていいものであるとすれば(これは詩としては全然評価されてないようだ。研究対象ではあっても。…まああの珠玉の「永訣の朝」なんかに比べっちゃっちゃね。)、ここがあってこそだと思うんだな。

 

なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ

ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる

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