2015年2月26日 (木)

「夕凪の街 桜の国」こうの史代

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こうの史代は広島出身者なのか、とプロフィールを見て、その生まれ育ち、そのアイデンティティに刻まれる土地の意味のいみじさを思う。

方言の確かなネイティヴ感もさすがである。母の田舎が広島で、一時期住んでいたせいもあり広島には縁があるのだが、バリバリの広島生まれ広島育ちの伯母たちの会話が非常にリアルに思い出される。しっくりと心に沁みこむそのリアリティ。

原爆への思いはその土地に沁みついた地霊、言い換えれば集団的な意識、集団的自我のようなものなのだ。そこに生まれそれを受け継ぎそれを呼吸し育ってきたものだけがアプリオリに保有している自我の一部としての原爆への思い。あるいは呪詛、呪縛。圧倒的に生命の尊厳そのものを損なうその暴力への恐怖。

だがここでは、それは大仰な悲憤慷慨や正義の叫びとしては描き出されない。

柔らかな自然な日常をそのままに描きながら、そこに、否応なく滲み出す歪みのサインをあぶりだす。逆説的に、その穏やかで幸せな日常を蝕み生命を食い荒らしそこなうシロアリのようにボディブローのように効いてくる毒薬としての理不尽をただかなしみとしてだけ描き出す。

身体に、精神に、致命的な傷を受けながら、何もかもただ運命を受け入れてゆく優しいひとたちの思いの切なさの遺伝子。

理詰めの論理で理不尽を憤り正義を振りかざすでもなくひたすらお涙ちょうだいのティピカルな物語にのっかって感情に流れ悲憤慷慨するでもなく。

ひたすらあわあわと流れる優しい穏やかな情緒、あるいはコミカルな日常のドラマの中で。

どのような非常事態のときもその毎日が存在する、というリアリティがある。家族があり、それぞれの果たすべき役割や思いやりふれあい、社交、日常でのドラマがある。食事の用意をし、食べ、話し、風呂を焚き、布団を敷き、暮らしの心配をし、親族近所とのやり取りをする。婚姻があり、子供とのやりとりがあり、夢や楽しみがあり、愛憎がある。たとえばサザエさんの中の暮らしのドラマのように。

こうの史代はひたすらにそこを描く。ほのかな恋や暖かな友情、家族への愛。日常のひとこまひとこま。

大衆がその強さを発揮する場面、吉本隆明が戦時下の日常性について、その大衆の「日常を生きる力の源泉」のようなことについて知識人と対比し「大衆の原像」という概念として言及していたような気がする。

そして彼女がここで描く戦時下の日常、戦後、原爆投下後の街の日常の描き方はまさにこの非常時における非日常の中での大衆の原像を描き出す。それは戦時下、狂った世の中に存在しながら切ないくらいに「普通」を生きる日常なのだ。

戦時下を呉の街の側から描く「この世界の片隅に」の中で、海兵となって一時帰国した主人公すずの(おそらくは)初恋相手がこの「普通」に関してこう述べている。炊事をするすずを眺めては「普通じゃのう」とにこにこ喜ぶ。「あーあー普通じゃのう。」

そして夫の昔の恋人に嫉妬していること、それでいて相手と初恋の思いをほのかに告げあうことの葛藤、その己への怒りと悲しみを表白して泣くすずに対して彼はこう言う。「すず お前はほんまに普通じゃのう。」

繰り返される、「普通」への思い。

「それ(普通・当たり前)こそしばらく見んけえたまげたわい。」

当たり前に家族を思い当たり前に少年らしい夢を描き海軍にはいり、そうして「人間として当たり前でない」理不尽な軍と戦争の世界を見たことを彼は言う。

 *** *** *** ***


全編を通し通奏低音として流れるテーマは日常生活の「普通」「当たり前」とそれが奇妙にねじくれてゆく戦時の「歪み」の不協和音だ。

「どうして」
「何故」

優しい感情、「当たり前」が何故このように歪んでいくのか。幾度も幾度もその違和感として問いは問われる。

「どうして命があってよかったなんていうんだろう。」
(爆弾に吹き飛ばされて姪を失い姪の手を握っていた右手が切断されたすずに夫が言った科白に対し。)

目の前で姪を失い右手を失い生活する基盤を失い婚家での立場を失い、爆撃が続いた。
死体に対し手を合わせる里から来た妹と違い、その死に対し無感動になった己を感じる。「歪んでいるのはわたしだ。」

原爆投下後10年を過ぎた広島を描いた「夕凪の街」でも、このテーマは同じだ。
穏やかに流れる日常、復興してゆく街。

だが皆原爆の傷跡を背負い原爆症への恐怖とよその土地のものからの差別を感じながら生きている。

普通の一日、風呂屋で和やかに談笑する普通に日常を過ごすひととき、その街の近所の人たちの身体には傷跡、火傷や原爆症の発症の証がある。
呪われた印。皆死んだのになぜ生き残ったのか、そして、生き残っても結婚も子孫も望んではならない呪われた身であるといういわれのない理不尽、己の心の枷。

「ぜんたいこの街の人たちは不自然だ。」
「誰もあのことを言わない。いまだにわけがわからないからだ。」
「わかっているのは『死ねばいい』と誰かに思われたということ。」

地獄絵図を見た。死体を乗り越え地獄を越え焼かれながら生き延びた。家族を友人を目の前でむごたらしく失いながら逃げ延びた。焼かれたあの日。

「しあわせだと思うたび美しいと思うたび愛しかった都市のすべてを人のすべてを思い出し/すべてを失った日に引きずり戻される。おまえの住む世界はここではないと誰かの声がする。」

13歳のときの被爆による心の傷(跡、ではない。触れる度なまなましく血を吹き出す裂傷である。)のことを誰にも言えず心の奥に秘めたまま、10年間。
表面を穏やかに流れてゆく日常、そして流れてゆく人生のステージ、23歳。恋人を得る。被爆による恐怖感のその告白。そして、すべてを知り認め受け入れ、その上で求愛する穏やかな彼の愛によって許される自己存在を確認した途端の、発症である。

ほっとした途端崩れ落ちる、これからの幸福を知った瞬間すべてを奪われる。あくまでもだんだんと感覚を奪われてゆく主人公の意識から語られる状況、目も見えなくなり時折声が聞こえる。手を握る恋人の気配。痛み。喉をせりあげてゆく生ぬるい血の感覚。

被爆後すぐに発症し亡くなった姉のこと思い出す。同じ症状。ついに見送る側から見送られる側になったという考えが浮かぶ。

「ひどいなあ。てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ってたのに。」意識の流れの表現が鈍く深く胸を突く。

あわあわと流れる優しい日常は柔らかな広島弁の会話のみで表され、内面を語る意識の流れのモノローグは標準語で語られる。この文体の相違もまた、内面に押し隠された思いの強さを際立たせ、胸を打つ。

この亡くなった主人公の姪、(疎開で広島にはおらず、被爆していなかった。)弟の娘が新しく主人公となったのが続編の「桜の国」となっている。
己のルーツを探ってゆく。同じく被爆した娘と結婚した「夕凪」の主人公の弟の妻、本作の主人公の母はやはり発症して亡くなった。母の死、この地の呪縛を解き明かしてゆく。

年月が過ぎ、直接的な爆撃の身体的な惨たらしさのなまなましい表現はより緩和されたものとなっている。が、逆に人の心への呪縛はより複雑にもつれた心の悲劇をあぶりだす。婚姻の差別である。被爆したDNAの遺伝を人は恐れる。

…ここでは連綿と受け継がれた原爆という呪詛、呪縛と愛の物語の連鎖が語られる。
そのピュアで切ないドラマの果てにに生まれてきた己を知り、破り捨てる呪縛の表象である手紙を紙ふぶきにして飛ばし、両親の愛の門出を祝福する桜の花吹雪のシーンに移ってゆく、脳裡に焼きつく映画の中のワンシーンのようなクライマックスだ。

賞を取った有名な作品だけど、初めて読んだ。
短い作品だ、と、ちょろっと開いてみようかな、なんて油断して読みはじめたら思いがけない重さで胸を突かれてしまった。

マイッタ。

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2007年6月23日 (土)

おじゃる丸と我が権威主義

 テレヴィとラジオならば、NHK、新聞ならば、朝日新聞。

 私の中にある、この嗜好は、一体何なんだろうかと考える。

 「正統派」であると私は思う。しかし、このような声も聞こえた。
 「権威主義」。

 権威主義?

 …少し、違うと思う。
 違わないとすれば、それは、「正統」や「権威」という言葉を問い直すところからはじめなくてはならない、ということだ。

 だって、NHK教育「おじゃる丸」や「ピタゴラスイッチ」、「みんなの歌」、FMラジオ「世界快適音楽セレクション」が、果たしてNHK以外で作られ得たであろうか?「みみずくメール」や「明るい悩み相談室」、ドリアン助川の「ティーンズメール」が、朝日新聞以外で、存在し得たであろうか?

 そうして、それらは、いわゆる、「権威」であるだろうか?

 …否である。

 確かに、それらは、「権威」の傘下にあるものかもしれない。
 これはおそらく、日本がアメリカの核の傘の下で、平和主義を主張している矛盾、という構造と同じものだ。

 だが、それはどちらも、「だからそのメッセージ、魂は意味を失い、無力になる。」という結論には、決して、つながるものではない。 

 権威とは、何のためにあるのか。
 そして、それは「権力」とは、どのように重なり、どのように異なり得るものであるのか。

 新しきもの、若いエネルギーを圧殺する力、「権力」としての、柔軟性に欠けた悪しき面がクローズアップされがちな、この言葉。
 権威への懐疑、その唯我独尊の「権力」的側面への反発の意識は確かに必要不可欠なものではあるのだが、同時に、やはり、その「権威」そのものの成り立ち、そもそもの存在理由をも、見失うべきではないのではないか、と思う。

 そうして、そのとき、その存在理由のひとつを、「何かを何かから守るため」、として考えることができはしないだろうか。
 

 …例えば、ふたつの「権威」のことを考えてみる。

 いわゆる「権威」、歴史的、公的な厚みによる重力という側面をもった権威が、ひとつ。

 そして、それに拮抗するもの。

 あからさまなその権威を嫌い、欲望による経済的な影響力をもった若い世代が、古い権威を厭い、或いはその古臭さを揶揄し、蔑みをこめて笑い飛ばし、自由を標榜しながら、実は、己が踊らされ、がんじがらめに縛られているものとしての、もうひとつの、見えない「権威」。

 新しい若い力の味方の顔をした、経済ベースのマスコミ・流行という「力」に、世の中全体が隷従しているという現象のことだ。

 彼らが古い権威を攻撃するとき、自分の拠り所として頼っている、「アンチ権威」の顔をした、目に見えにくい、これら、もうひとつの暴力的な権力としての「権威」の存在のことを考える。

 (一番恐ろしい権威は、自己の内部に組み込まれながら、(自己自身でありながら)自己を支配し、呪縛するものである、外部に通じるものである権威のシステム、この「不可視性」なのではないか、とも思うのだ。)

 心に深いもの、良いものをつくりたい、伝えたい、表現したい、という個々の衝動よりも何よりも、経済性。何よりも、ウケるかウケないか。何よりも、視聴率。何よりも、スポンサー。これが作品制作の基盤である。制作者自身がその立場として決して自由ではなく、逃れることのできないものとして囚われているシステム。いかにして経済的に「勝ち組」となるかのゲームに組み込まれた、情報網、物語、娯楽。
 やらせ健康番組やパパラッチのあじきない事件に代表されるように、個人を尊重する慎み、他者への配慮、それら、経済的には何らの意味ももたない要素、末端に対する麻痺、その無神経には目を見張るものがある。
 ひたすら、より手っ取り早く、手軽に大きなインパクトを与える手法がスタンダードとなるのだ。それは、不可避として、表面的な驚きや刺激を与える情報、仰々しく騒がしい音楽、効果音、劇的な画面構成、語り口を標準とする。

 …制作する者自身を、そうして、受け取る側の人間を、貶めてゆく。

 アクション、暴力、二元論の、その論理地平の成り立ちそのものに対する視点へと掘り下げられることのない、お手軽で表面的なステレオタイプの軽い正義が安売りされて、蔓延する。

 世界の全体性への不思議の念。畏敬の念。勧善懲悪のための単純な二元論から離れた、何が正しいのかを選ぶ己の心の「考える力」を育む、疑問符に耐え続ける知性の力。それは、ぴりぴりとした刺激によるのではなく、ただ静かに語られるメッセージによってのみ得られる種類の「力」なのではないか。
 静かに、静かに、気付かないほどの柔らかさで自身へとしみこみ、じわりと、心に深く根をおろし、ゆっくりと育まれる、豊かな自然の森のようなペースの種は、即効性とは無縁である。この致命的な欠点のために、現代社会では、切り捨てられ、排除される弱者に属するもの。

 …価値観の基盤が異なるのだ。

 宮澤賢治の未完の短編、「学者アラムハラドの見た着物」の一節が、「マグノリアの木」の「覚者の善」の概念が、あらゆる倫理の相対性に苦しんだひとりの思念の目指した、世界の果ての「つめたくあかるいとこ、」寂しく静かな風景として、頭の中をくるくるとまわりつづける。

「覚者の善は、絶対です。それはマグノリアの木にもあらはれ、けはしい峯のつめたい巌にもあらはれ、(中略)度々の革命や飢饉や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善で、又私どもの善です。」(マグノリアの木)

「『私は飢饉でみんなが死ぬとき若し私の足がなくなることで飢饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。』アラムハラドは、あぶなく泪をながしさうになりました。(中略)『人が歩くことよりも言ふことよりももっとしないではいられないのはいいことです。』アラムハラドが云ひました。『そうだ。私がさう言はうとおもっていた。すべて人は善いこと、正しいことを好む。善と正義のためならば命を棄てる人も多い。(中略)』小さなセララバアドは少しびっくりしたやうでしたが、すぐに落ち着いて答へました。『人はほんたうのいいことが何だかを考えないではいられないと思ひます』アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこらじゅうぼおっと燐の火のように青く見え、ずうっと遠くが大変青くて明るくてそこに黄金の葉をもった立派な樹がぞろっとならんでさんさんさんと梢を鳴らしているように思ったのです。」(学者アラムハラドの見た着物。)

 あらゆる倫理や価値観の相対性、そうして、そのすべてを突き抜けた、彼方の、つめたくあかるい、寂しいうつくしい「絶対」の風景のこと。

 …常に、あらゆる権威から自由であり、けれども同時に何かを選びとりつづける力を得るために。
 矮小な自分の自覚と、その内側に開かれる、この無限のカオスへの、不安を超えた豊かな信頼の窓の存在を感じていたい、なんて思ったりする。

…ということで、モンブランタルトの豊かな断面図。

Tart_p

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