2017年8月20日 (日)

「この世界の片隅に」こうの史代

原作には甚くヤラれていたのだ。
うっかり油断して読み始めると痛い思いをする漫画である。
「夕凪の街 桜の国」とセットで原作への感想はここでちょっと書いた。
これがクラウドファンディングで映画になったという。アニメーション。なんか周囲の人々が激賞してるし世界中でやたら評判がよくて、あれよあれよという間に話題になって賞かなんかまでとってしまったらしい。
映画館でも観たいかなアなどとずうっとぐずぐず思ってたのに、やっぱりなんだか行きそびれてしまった。

ということで、オンライン試写会、ぽんと飛びついたんである。おうちでポチ。

夜部屋で酔っ払い状態でさあっと観ただけだから、原作もみちみち読み込んだわけじゃないから、責任のないおぼろな記憶からの印象だけど、なんかこのまま忘れてしまうのもかなしい。一応ちょっと思いついたことひとつメモしておきたい。

原作と映画とのちょっとしたアプローチの違いのようなものについて。

…アニメーション映画が、その性質を活かして、原作とは違うバランスで物語の特質を見出させうるという、その媒体による手法について思ったのだ。

主人公のすずさんが絵を描くという行為の強調、そのクローズアップのことである。
絵を描く行為が、物語行為になっているというのだという製作者(原作の創造的読者)の明確な認識。その感覚を感じたのだ。

それは、すずさんの描いている絵が映画の画面の現実と等価な風景として描き出され重なっていくという映画的な技法、いやむしろ現実を凌駕する、現実(という物語)を作り出す、という「世界認識(創造)」の技法として見出されるもののことである。

この映画の中では、時折、現実がすずさんの描く鉛筆や水彩的な絵画のようにして描かれる、タッチが変化する瞬間が挟み込まれている。

絵となった世界。すずさんの眺める世界。

それは、すずさんが世界を読む方法。それは、世界をうつくしいものとして読みとろうとする、あるいは読みかえようとする方法論。そしてそれは、いわば彼女がよりよい人生を生きるためのメソッドを我々に示すものとしての表現なのではなかったか。

原作では取り落としがちであるこの要素を、アニメーション映画は大きなテーマとして拡大強調してみせる。

すずさんの描くもの、それはまた、ありえたかもしれない人生の「もしも」の世界でもあった。限りなく分岐する運命と、たった一つの現実という残酷と切なさとかけがえのなさを映画は語る。

一枚の絵に収められていったものは、あきらめられた夢の墓標、果てしない物語の夢のイコン。日常を支える豊かな世界の豊饒を、心の中にそれは創出する。決して一つの世界に閉ざされることのない解放をいつでも胸の奥に秘めていられるように。

これが非常に顕著に表れているエピソードがある。初恋の幼馴染と婚家の納屋で二人きりのひとときを夫から与えられる、非常に危うい場面である。寄り添い、お互いの過去の思いを伝えあう二人。

運命をただ従容として受け入れ、あきらめてきた過去に描かれたほのかな夢、一枚の夢。穏やかなあきらめとともに、与えられた運命に応じてきたすずの人生である。その中で、その場に応じた夢をせいいっぱいうつくしく描き続けようとして生きてきたけれど、やはり決して取り戻せないものへの思いはある。その切なさと、そしてしかし今選んだ道(夫への愛、周りへの愛)のかけがえのなさの、ふたつの心。己の中にうずまく激しいその両極の感情のやるせなさに耐え切れず、すずは泣くのだ。

すずさんの描くものは、五感と日常、そしてそのファンタジー(民俗的異界感覚)から生まれる、日常と命に直接根差した物語。それは例えば冒頭の、妹に絵物語にして語る、子供の頃に妖怪にさらわれたエピソード、未来の夫に出会うファンタジックなエピソードである。怖いのに、どこか親しみがあってあたたかい、民族的な異界、すずさんの住む世界、描く世界。

或いはそれは、いわゆる現実との二重の風景をなす。
時折なめらかなアニメーション画面がすずさんの描く手描きの絵のタッチとなって切り取られる、アニメーション映画ならではのそのしかけを、我々は一枚の絵画として心の風景に収納してゆく。

厳しい現実の戦争は、国家間の正義の物語は、目の前のやるべきことをこなす末端の日常に影響を及ぼす限りの出来事としてしか認識されない。お砂糖の配給がなくなる、お砂糖を大切にしながら失敗するが、それもあたたかな家庭の笑い話の一コマに変換されている。それは、唯々諾々と、ただ環境を受け入れる大衆の日常。政治も権力も国家の正義もない。与えられた運命があるだけだ。

物語とは論理である。言葉により、絵画により、音楽によって、五感によって成り立つ無限に生成される可能性を持ったロゴス。

それは、大きな物語、小さな物語。個別の物語、権力や倫理の描く物語。

*** *** 

そう、このアニメーション映画の中で原作から特化して抜きだされ強調されているのは、描く絵によって現実が認識定義される、という構図、その論理だ。アニメーションならではの鮮やかに躍動する表現力がここでより生きる。強みとなる、…ということを作り手は意識しているのだろう、と冒頭で述べた。それは一体どのようなかたちでか。

それは、例えば小学生の時の写生大会のあと、初恋の少年とともに見た海の風景、その白波にあそぶ海うさぎ。すずが描くことによって海にうさぎが飛びはねる世界の躍動が真実となる。その論理構造ががうつくしいアニメーション映像によって表現されている。

世界が、物語がそこに生まれるのだ。原作においてこれは言語と絵画によって表現されるものであり、動きとは読者の頭の中で行われる作業であった。アニメーションは読者の(少年の)脳内の風景を外的な視覚として直接画面に映し出す。少年は、その絵を見て嫌うべきだった海が好きになってしまうのだ。

海は美しいものとして読みかえられる…現実は芸術を模倣する。

すずさんの日々は、いつもそうやって描き続けられてきた。

だが、戦争の残虐さは、ついにその限度を超える。爆撃で姪っ子と右手(絵を描く手、物語を、夢を紡ぐ力)を失うことによって、救いを失い、いままでただただすべての理不尽をしなやかに受け入れてきたすずの心に、周囲の残酷な状況がナマなかたちで襲いかかり、裏の心、不条理への疑問が芽生えてくる。「どうしてよかったなんていうんだろう。」もう世界の醜さを読みかえる力がない。
そう、戦争は何もかも叩き潰す暴力、徹底的な絶望だ。そして、だが、この物語には救済が仕掛けられている。

戦争は終わるのだ。

過去に失われたものが未来からやってくる。「もしも姪っ子と左手を繋いでいたら」、の、その「もしも」がやってくる。爆撃の際、左手を繋いでいた母子の人生とのクロスオーヴァというかたちで。

母は片手と命を失い、子供だけが助かるという別ヴァージョンの物語をもった母子から、それはすずのところにやってきた。失われた姪っ子の代わりの戦災孤児となってすずにしがみついてきた子供。

お互いを求めあう、支え合う。そんなかたちの救済。失われたものが、「もしも」の物語の世界が、未来の現実となって別の命の形で補われ再生してゆく。

このラストは、失われるべきではなかったものの、その悲劇を、かけがえのなさを激しく怒り悼むとともに、決して未来をあきらめない、永遠に「普通」の日常の、日々の幸福と慈しみあいを続けてゆこうとするひとびとの、再生と救済の物語となっているのだろう。

そのしたたかさ、ひたむきさ、純粋さは、あるいは吉本隆明が戦後「大衆の原像」と呼んだひとびとの姿と重なるものなのかもしれない。

…と、なんだかね、そんな風なことを思ったんだよ。

蝉が鳴いて、西瓜を食べて、お盆が来て、そうやって、今年も8月は過ぎて行く。

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2016年9月 2日 (金)

シン・ゴジラ試論「現実対虚構」に関して。(「春と修羅」を手掛かりに)

●初代ゴジラとシン・ゴジラ
 
2011.3.11の東日本大震災と原発事故。
あの出来事なくしてはこの作品は成立しえなかった。
 
初代ゴジラが第二次世界大戦後9年のあの時代に生まれた原理とこのことは重なって見える。
 
… 昭和29年。核の時代の幕開けだった。実際に行使され、兵器としてのその恐るべき破壊力が確認された。大国間の緊張状態にあって両国で激烈な勢いで発達し たそれら核兵器、核エネルギー開発の時代。この年の3月にはビキニ諸島での水爆実験が行われ、第五福竜丸が死の灰を浴びるという事件が起こっている。人類 が地球環境を破壊しもろともに滅亡するというヴィジョンが未曽有のリアリティをもって立ち現れた時代。
 
人類にとっての世界そのもの、未来そのものの存在の確かさが根底からくつがえされた。滅亡のリアリティの読み込みと共有である。
 
それはすなわち恐怖と危機感の時代であり、倫理なき科学技術の暴走への危惧の萌芽の時代であることをも意味した。権力争いや欲望、盲目的な知識欲の行きつく先、その愚かさの果てが見通せるところに来た。…警鐘を鳴らさなくてはならない。
 
その危機感のムーブメントの流れの中に生まれた「怪物」。
被爆国日本の世相において、そのような驚愕と危機感を鮮やかに示しだした怪物がメガヒットエンタテイメント、初代ゴジラだったのである。
 
 
…とすれば、この「シン・ゴジラ」の脅威のリアリティは、あの震災と原発事故以後の国全体の危機への自覚の共有、その圧倒的なリアリティによって成り立っている。
 
あの震災の日から5年が過ぎた。
 
ある日突然、圧倒的な力で日常が破壊されるという恐怖。突如巨大な悪夢が牙をむき、日常現実を木っ端みじんの破砕するというリアリティ。
 
触れるだけで飛び上がるような痛み、生々しいあの恐怖が、国全体の共通認識として植え付けられたあの日から、5年。
 
我々の多くは、その痛みに反射的にヒステリックな感情を噴出させてしまうことなく、多少の客観性をもった表現を許されるところに来た。だが決してそれは、恐怖と痛みは、風化していない。
 
シ ン・ゴジラは、その絶妙のタイミングをもって現れた映画であるともいえるのかもしれない。なまなましいリアリティから決して離れることなく、そこからその 意味を冷静に未来のために考えてゆく、知として深化させてゆくための起爆剤、或いは歴史の中に置かれようとするマイルストーン。痛みと恐怖のリアリティに 立脚したところから始まる未来を模索する思考、思想の構築と深化をそれは求めたものである。
 
 
だが初代とシンが決定的に異なるところがある。
それは、破壊される街、破壊される日常現実の位置づけだ。或いは、その価値。
 
初 代ゴジラにおいて、破壊対象となった街は、人々が戦後やっとの思いで復興を遂げてきた街、庶民の貴い平和である。かけがえのない貴重な日常現実、暮らしそ のもの。だが、世界じゅうに蠢く戦争への指向、科学技術の暴走が、それを根底からくつがえす暴力的な災害、ゴジラを呼び起こす。
 
呪われ、呼び起こされたあらぶる神の理不尽で圧倒的な暴力を前に、なすすべもなく蹂躙される被害者たちの悲劇や嘆きが描かれる。
空襲を思わせる突然の脅威、防空壕を思わせる避難所。何の重みも意味もなくちっぽけな虫けらのように目の前で奪われてゆく大切な人々の命、蔓延する悲痛な嘆き、廃墟。
 
それは先の戦争のなまなましいリアリティ、身体性としての恐怖である。
 
作品中、女学生たちによって、被害者のための鎮魂歌が歌われるシーンがある。…これは、そのまま戦争犠牲者への鎮魂の歌だ。この映画は、ある意味哀悼と鎮魂のための作品であるといってもよいかもしれない。
 
 
翻って、シン・ゴジラ。
ここで破壊されるものは何なのか。
 
破壊された街は、その日常は、初代ゴジラの破壊した街とは物質的破壊という現象では同じかもしれない。だがその持つ意味合いは大きく異なっている。
 
ここで中心に描かれるのは人々の悲劇ではなく、政府の対策に焦点を絞った「闘い」のドラマであり、ここで被災者への鎮魂歌は歌われない。このことは、二つの作品の中で破壊されたものの意味の違いと大きく関わっているように思われるのだ。
 
この「破壊されたものの意味」を、映画のキャッチコピー「現実対虚構」という闘いの構図の意味から考えてみたい。
 
 
●「現実と虚構」
 
震災、原発事故。対応に追われる政府、その頼りなさの露呈。あのとき、ニュースで流される政府や対策本部関連の対応コメントにおいて、「想定外」という言葉が、繰り返し繰り返し使用された。「まさかこんなことが。」皆が共通に感じた言葉があふれ出た。
 
「当たり前に永遠に続くかと思われていた平和や爛熟した物質文明の繁栄を誇る日常が、ある日突然たやすく失われうるものである。」
 
こ の現実味を帯びた危機感の発揚、そしてそのドラマティカルな共有。作品はあのときのこの衝撃を、詳細で綿密な細部の描写、行き届いた小ネタのリアリティに よってえぐりだす。(作品中、この「想定外」やアナウンサーの絶叫する「信じられません、まったく信じられません!」の科白は繰り返し使用されているもの である。)(そして、細部にわたるこの綿密な小ネタの仕掛けこそが「あの日々」をまるごと共有した我々をこの作品の中のなまなましさの中で再び結びつける 役割を果たしているものなのだ。)
 
あれは ぬるま湯の幻想が打ち砕かれた新しい時代のはじまりだった。
 
突然の災害によって破られたぬるま湯の幻想。これは、作品の、突然のゴジラ来襲によって破壊された日常現実、という構図と重なっている。
…とすれば、或いはゴジラによって破壊されたのは、「現実」だと信じていた幻想(虚構)だったのではないか?
 
…ではいったい何が日常現実という幻想を構成していたものだったのか?
 
この映画のキャッチコピー「現実対虚構」は、「現実」には「ニッポン」、「虚構」には「ゴジラ」とルビがふられたものであった。
一体その「現実」ニッポンとはどこにあったのだろうか。今まで現実を構築していたと思っていた「情報」は一体どこからどこまでが「現実」と呼べるものであったのか。
 
「現実」とはなんなのか。
 
「現実と虚構」というこの問題提起のありかたは、作品中意味ありげに登場した宮澤賢治の詩集「春と修羅」の暗示と関わっているように思う。
 
 
●春と修羅
 
シン・ゴジラは、小さな船の発したひとつの小さな異変のサイン、牧博士の謎の失踪シーンから始まる。
 
博士がその最後に残したものは、船に残された折り鶴と詩集「春と修羅」ときれいに揃えられた靴だった。
 
この折り鶴のモチーフは伏線となって、アメリカ側からもたらされた博士の謎の暗号資料を解読するカギとなった。では春と修羅はなんだろう?
 
これは、放射能関係の事故で最愛の妻を失い、放射能を無害化する研究を行っていた博士が、どのような修羅を生きていたかを考えてみるのが妥当だろう。
 
修羅とは、本来正義を求める神であるが、己の正義に固執しそれをこじらせたために道を外し、ひたすら矛盾の苦しみのどうしようもなさの中で闘うしかない者、そしてその果てない闘いの場所の意味である。
 
「春と修羅」はうつくしい春の風景の中にありながら、心象的には苦い怒りの世界にいる「すべて二重の風景を」ゆく、この矛盾と怒りの修羅としての自己を描く心象スケッチだ。
 
…これはまさしく虚構と現実の二重写しの構造ではないか。
 
妻 を失い苦しむ牧。彼は世間的には隠蔽され封印されながら確実に存在する放射能と核の恐怖をリアルに感じ続け怒り続け苦しみ続けた。この修羅としての己の世 界と、無知で無神経な人々がそれに気づかず、うわつらの消費文明を謳歌している、豊さと幸福の夢にあふれた華やかな世界、その春の景色との二重写し。
 
そのどちらも間違っているのだ、と修羅は知る。
「 まことのことばはここになく/修羅のなみだはつちにふる」
 
…そして、ゴジラはその二重の風景の接点を暴力的に作り出す、荒ぶる神だ。春の風景に殴り込む修羅。交わることなく並列していた二重の世界の均衡を破る力、二項対立のフィールドを作り上げる起爆剤。
 
牧博士が自らゴジラを目覚めさせる起爆剤となった、という示唆はこの詩集の存在においてその説得力を持つことができる。すべては、第三項、止揚された「まことのことば」の方向を模索するためであるとすれば。
 
エネルギー問題を解決する福音であると同時に、滅亡、盲目的な破壊の凶器である荒ぶる神。それは善悪の彼岸、世界に秘められた『純粋な力」の顕現。破壊と再生のシヴァ神、あらゆる宗教が語る世界の終わりの日を体現する使徒であるところのもの、シン・ゴジラ。
 
そ の代償の部分を隠蔽したまま理想の「春」の幻影をつくりだしていた現代日本のシステムの歪みは、作品の前半部、アイロニカルに震災の際の政府や報道陣、 人々を戯画化して描写したところに示されている。「想定外」の事態には対処しきれない政府の後手後手に回った大慌ての対応のお粗末ぶり、体面を重んじ責任 を逃れる体制の澱みと歪みの露呈。非能率的で保守と澱んだ権威主義に硬化したあらゆる権威のシステム。
 
このシステムの上に営々と紡がれてきた街の営みがまるごと、オモチャのようにやすやすと壊されてゆくのがゴジラの圧倒的な破壊シーンだ。実際のあの震災の経験から賦与されてしまったそのリアリティの重みは我々観客にとって、まずは…、問答無用の恐怖だ。
 
だが、それはまたまごうことなき陶酔でもある。恐怖とセットの、ぞくぞくする、陶酔。どこかに感じて続けていた、己を限り縛る日常の歪み、澱み、閉塞。その呪縛から解放される感覚。一つの現実の崩壊。
 
カタストロフ。死がなければ再生はない。まったくあたらしいところに、ここではない正しいところに生まれ変わりたい。
 
そして、そう、奇妙なほど、この映画の中での空と海の描写は美しいのだ。無条件に心に沁みる。無常の果てにある美しさ、どこかにある絶対のまことの場を暗示するような。
 
●春と修羅「序」
 
「シ ン・ゴジラ」においては、その圧倒的な荒ぶる神の対処を、初代ゴジラのように限られた天才博士ひとりには請け負わせない。 また、初代にみられるような災厄と恐怖のアイコンとしてだけでないゴジラ、(核)(自然エネルギー)(神)の「両義」性への視座もまた明確に確立されてい る。
 
それゆえの葛藤がマキ博士の「春と修羅」なのだ。彼は賽を投げたものとして、既にゴジラ側(虚構)に移行した。
 
「私は好きにした。君たちも好きにしろ。」
 
彼 はこの言葉と共に失踪する。純粋で莫大なエネルギーの両義の可能性を、まずは、いまあるかたちの「現実」に対する破壊パワーとして投入する、だかしかし、 同時にその向こう側の福音への手がかりを残した。ゴジラの中に秘められた、エネルギー問題を解決する可能性を秘めた新元素、正しい倫理のもとにそれが運用 される科学の力の勝利への祈り。…賭けたのだ。
 
(ゴジラに血液凝固剤を飲ませて凍結させる作戦の「ヤシオ リ作戦」というこの命名は非常に示唆的だ。日本神話で、荒ぶるヤマタノオロチを酔わせて退治する、その酔わせるために用いられた酒「八塩折之酒(やしおり のさけ)の名から来ているからだ。…オロチとの闘いに勝利したときその身体から三種の神器のひとつ、 クサナギノタチが得られる。ゴジラとの闘いに勝利したとき、我々はその身体の組成から全く新しいエネルギーの可能性を秘めた、新元素の秘密を知ることがで きる。)
 
一つの疲弊した(我々にとって)リアルな「現実としてのニッポン」を「虚構ゴジラ」によって完膚なきまでに叩きのめされた後、新たなる世界、新たなる現実、まことのことばを目指してそれを打ち立て守ろうとする者たちは、その残されたメッセージの手がかりを頼りに闘う。
新たなる現実構築のために仮設される能率・能力主義の日本政府。内閣官房副長官矢口を中心とした「巨大不明生物特設災害対策本部」の活躍。
 
そ してこれは 個々の人間ドラマではない。個を滅したところにうまれる群舞の美を描く。理想的に機能するシステマティックな組織の生み出すネットワークの力の描写に焦点 をしぼり、個々の人間ドラマを排除する。ひたすら現象として純粋な「力」の象徴としてのゴジラ(虚構)に向けて、その純粋な「力」をもって闘う、その小気 味よい流れと動き、一種「虚構対虚構」ともいえる物語性とエンタテイメント性。
 
パーツとしてのキャラク ターが各々のフィールドで各々の役割と有能さをもって小気味よく活躍し、素晴らしい理想の連携プレイを見せる。指令部から実行部まで、よどみなく美しい 法、論理に制御されてすさまじい情報量と共に息つかせる間もなく圧倒的に作戦は流れてゆく。律動的な美学に彩られた作戦実行の現象が淡々と描かれる。ゴジ ラの破壊シーンと並ぶ、この映画の見せ場だ。
 
…少し深読みにすぎるかもしれない、しかし私はもうひとつの「春と修羅」がここに重ねられているのではないかと思うのだ。
 
春と修羅「序」。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」
 
システムとして機能するひとりひとりの人員は、相互ネットワークのひとつの灯りとして一つの全体を構成するパーツだ。…これはおそらくインドラの網に繋がっている。理想の、真実の宇宙の姿。現実の相対性を意味するものである多元宇宙。
 
歪み澱み疲弊した日常、「現実ニッポン」の破壊を受け入れ、まことのことばを目指した新たなる現実(或いは新たなる虚構)としての世界、新生日本、その再生をかけて闘うものたちの総体としてのドラマ。
 
「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた。」
 
ラ ストシーン、内閣総理大臣補佐官、赤坂のこの科白は、理想をあきらめないものとしての「虚構」が常に新たなる「現実」をよどみなく限りなく再生させ続ける 力なのだというメッセージであるようにも思える。現実とは、常にまことを目指す自らの意志でその情報を選びとり、総体として「作り上げる」「生成し続け る」ものである、と。
 
初代ゴジラは戦死者の追悼と鎮魂を歌いながらの未来と再興を願う「当時の今」のための映画であり、シンゴジラは歪み澱んだ世界を切り裂き膿みを吐き出させるカタストロフ、破壊と再生のための「現在としての今」のためにリアルタイムの警鐘を打ち鳴らしている映画だ。
 
ゴ ジラのすさまじい破壊シーンのクライマックス、今在る姿の東京が絶望に包まれた瞬間、鷲巣詩郎の音楽が陶然となるほどの崇高な神聖さを奏でる。まるで讃美 歌のような。…破壊神への普遍的な欲求は誰の心のなかにも潜んでいるに違いない。それは神の国、新たなる世界の再生を意味するものであるから。

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2016年9月 1日 (木)

映画館へ!「シン・ゴジラ」

周囲のあまりの評判の高さに負け観てまいりましたシン・ゴジラ。
Cinema1

何なんだよこの「シン」ってタイガージェットシンかよ、とか思ったら、どうやら「新」「真」「神」などがかけてあるらしいという噂。


…評判の高さ納得。

感想はひとことである。おもしろかった(タメイキ)。

イヤイヤイヤ、おもしろくてびっくりした。

実は、庵野監督作品、有名なエヴァンゲリオンなんか、どこがおもしろいのかどうして人気あるのか全然理解できなかったので、(正直バカにしてたくらいだった。)これも全然期待してなかったんだけど。予習のためTVでやってたハリウッド版ゴジラみようとしてつまらなさに挫折したし。

ごめんなさい映画のひとたちの偉大さ知らなかったのネ自分。映画ってすごいのネ。

これは是非とも映画館で観るべき一物。ご家庭でちんまり画面ちっちゃい音でこそこそ鑑賞してもダメである。

何しろ映画館自体数年ぶりでただでさえ大興奮の大緊張。入り口へのエスカレーターはまるでTDLのスペースマウンテンの最初の上り道。わくわくと緊張のあまり腹痛起こすかと思った。(ホントにお腹痛くなった。)
Cinema
映画館の雰囲気にそわそわわくわく。何となく空港にいる気持ち。タイムスケジュールにそって、いくつものホールに分かれ、それぞれいろんな映画世界へ旅立ってゆく人々。

整然と並んでチケットを切ってもらい、シートに落ち着いて旅立ちの準備。あたり一面ポップコーンの匂い。

Cinema2
映画館の椅子はなかなか座り心地がいいんだよね。

 *** ***  *** ***

鑑賞後。

我がかよわい脳みそはしばらく大興奮状態。 余りの情報モリモリでオーバーヒート機能停止で夜まで日常に戻れなくて大変だった。(帰り道事故にあわなくてよかった。)

で、いっぱいいろいろ考えたいと思ったんである。

とりあえずその日は冒頭のマキ博士の残した「春と修羅」(あの復刻版もってるぞ。)の意味を頭の中でぐるぐるとこねくりまわしていた。

そしてとりあえず直後の印象ひとことメモ。

何故面白いか。一番の要素はこの作品がすべての要素、すべての領域における知によるカリカチュアとしてみることができる、というところにある。なんかこれだけは思ったんである。

物語を超えるものを描くことは、その物語をなぞり物語性をあばきだすことでしかなしえない、という言説が確か大学の時読んだ物語論的な本のなかにあった。非常に印象深く脳髄に焼き込まれている、これを思い出した。

ものすごく熱い思いが、もどかしいほどの真摯なメッセージがこめられているエンタテイメント、そのカリカチュアのありかたへの感動なんだ。

とそんな風に。とりあえず。

で、春と修羅関連のテーマで考えてみたいな、と思ったので、次の記事はそういう感じで「シン・ゴジラ」感想です。(観た人でないとわからないと思うので、観た人むけね。)



(「え~、ゴジラかよ!」と尻込みする私をゴリゴリ推しで誘ってくれた友人に感謝。何でも飛び込んでみるもんだ。)

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2014年7月29日 (火)

朝のドラマ/道ならぬ恋それぞれ

お食事中失礼してパチリ。
Bee1
アガパンサス。

ギリシャ語の 「 agapa(愛らしい) + anthos(花)」の 組み合わせなんだって。


  *** *** *** *** ***


さて、NHK朝のドラマである。

ただいま奇しくもカーネーションと花子とアン、両方道ならぬ恋テーマである。この恋心の描かれ方の違いがとっても興味深く思えた。ということで道ならぬ恋、それぞれ。

花子の恋はあちこちの物語ツギハギしただけのまったく理解できない唐突なもので論外だけど、蓮さまのはちいと面白い。

もうこのドラマは「花子とアン」じゃなくて「蓮子とデン」だ。

白 蓮と嘉納伝助、蓮さまと伝ちゃんの迫力演技に対して相手の帝大生のキャラクター、描かれ方がちと弱すぎるのが残念なところ。でも伝ちゃんがこれだけたっぷ りと魅力的な敗将として描かれてしまったら、釣り合うだけの魅力を描き出すのは確かに難しいと思う。役者の力量としても脚本によるキャラクタライズにして も。

この辺りはモデルの白蓮事件の事実関係と合わせ見るとまた興味深いんだろな。

何 しろ伝助が非常に魅力のある人物として描かれている。文盲の石炭王の拙く無骨な愛の表現、その不器用で阿呆な愛の告白。(「顔に惚れた」!)(金銭的に不 自由させない)。彼なりのまっすぐな純情と、蓮子さまのフラストレーションで歪んだ傷つきやすい誇り高さ、繊細さのすれ違いが痛ましい。それはただ絶望的 な価値観の違いなのだ。

炭鉱のトラブルのエピソードは蓮子と伝助のひとときのほのかな優しい時間として描かれており、二人の愛情の可能性がないわけではない、という片鱗をほの見せることによってその後の悲劇を一層切ないものとしている。

押しかけ詰め寄る事故の被害者たちから蓮子を守り、たたき上げの石炭王にふさわしい貫録、漢気で誠意ある態度を見せる伝助。過労で倒れた彼を心配し、妻の役割を果たさねば、と、懸命に慣れない看病をする蓮子。病床でそれをほのかに喜ぶ伝助。

蓮子には、自分がお姫さま、お人形さん、芸者さん。美しさだけの飾り物であるという強迫観念にも似た自覚がある。

男たちにちやほやされているようでいて、金と権力で贖われた結婚、ひとりの人間としてではなく、いわばただ商品として道具として縛られ利用されてきた自由のない人生の痛み。

あたら才能のある聡い女性であった彼女にとってはその痛すぎる自覚は、ひとりの女性として人間として認められることのないフラストレーションとして、ただ尊厳を踏みにじられるだけの牢獄であった。

そしてせめて妻であるという価値を得たい、その役割を果たそうとするほそぼそとした努力、それすら満足にもつこともできなかったその立場は、生きる価値、誰かに必要とされる実感、いわば生きてゆくための喜びを奪われたものである。

夫は芸者遊びや他の女のことに関しても悪びれることもなく、罪悪感もない。彼女にとってはそれは美しい理想の愛もへったくれもない、相容れることのできない価値観であった。

蓮子の夢見る、躍動する自由の世界、未知の世界、外の世界、ただ自由なひとりの人間としての社会参加。それを体現していた若い社会活動家の情熱は、蓮子の 人生の閉塞感と鬱屈を一気に開放するための窓であった。人間としての自分の価値を金や権力の絡まない形でまるごと認めて愛される喜び。

ここで愛とは、いわばそのひとつの方法論なのだ。


  *** *** *** *** ***



さて、カーネーションの糸子の初恋の描き方はまた別の問題系から来る。ここで関係してくるのは戦争だ。

糸子は子どもの頃から女性であることによって差別され制限される理不尽と闘ってきた。

青春時代を、男性に夢を求める恋愛沙汰よりも己自身の激しい夢と情熱をかけた仕事と商売に夢中になって過ごしてきた。旧い権威と理不尽を体現する父との確執、そこから自身の情熱と才能、努力で勝ち取ってゆく夢の実現、成功の物語がドラマの基軸だ。

彼女は恋愛や結婚に重きを置くこともなく、周囲に流されるまま仕事の合間に「ま、仕事仲間に丁度都合がいいか。」なノリであれよあれよと結婚、子持ちになってしまった。

そして戦争である。

町の風景から男たちが消えてゆく。喜びも消えてゆく。軍隊へと奪われてゆく男たち、そして悲劇。大切な友人が、憧れだった人が、そして父が、夫が失われてゆく。

奪われたものへの激しい喪失の悲しみ、号泣、怒り。

限界まで追い詰められたとき糸子の中に激しく燃え上がる情熱は「生きぬいてやる。」その激情にも似た意志である。

すべてが終わった後、そのエネルギーは新しい生活、新しい世界、躍動する生命力に満ち溢れる復興のダイナミクスの中に水を得た魚となり、糸子はただ嵐の中、先頭に立って戦いながら大切なひとたちを守るために夢中に生きてきた。

そしてぽっかり空いた心の穴、奥深く隠していた己の喪失に気付くのは、それを埋めるものを見出した時だ。

周防さん。

失われたものは、象徴としての男たちの存在の集合体。父なるもの夫なるもの友なるもの。糸子の心の空洞、しんしんと痛む喪失の闇。


「うちは父ちゃんが好きだった。勝さんが大切だった。泰蔵兄ちゃんが憧れだった。勘助が可愛くて仕方なかった。」

糸子の夢を阻み理不尽に暴力をふるうダメダメぶりを発揮していたお父ちゃん、だんじりの夢は男のもの、女は排除。女は男に隷属しかくのごとく生きるべし、 という男社会の倫理観と闘ってきた糸子である。だが女たちを抑圧してきた男たちが決して女たちの敵なのではなく、家族であり、愛しあい支え合うかけがえの ない大切なものたちであることは彼女の中では大前提なのだ。

父ちゃんの理不尽や女性差別、旧制度、上からの圧力と戦い自分の力で夢を勝ち取ってきた糸子が、それを勝ち取った後、上が弱ったときにはじめて心細さを感じるというエピソードは、このジレンマにも似た問題の重さを描いている。


その大切な「男なるもの」の不在が、周防さんへの思いを生む。



出会いは酔いつぶれて背負われて帰る散々なものだったが、そのとき夢の中で背負われている糸子がつぶやくのは「お父ちゃん…」。

そして彼が店で働くようになったとき、クローズアップされるのは男物の靴の存在感。戦争で亡くなった勝の位置でミシンを踏む姿。糸子の仕事を賛美する、歓びの共有もまた勝さんの不在の部分を占めるものであった。


糸子を支える、父なるもの、夫なるもの、友なるものとしての男という存在。



すぽんと、糸子の心の中の喪失、男の不在という空洞にすぽんと入ってきてしまったのがこのひとの存在。そんな恋である。


  *** *** *** *** ***



カーネーション、今まで観た朝のドラマの中でピカ一の素晴らしさだ。

戦時中糸子の母方祖母ちゃんが「辛気臭いと人間死ぬ。」と言い放ったシーンがある。
このドラマにトータルにながれるコンセプト、生きる意味、悦びのこと、よりよい未来への希望、躍動への賛歌の快さを感ずる。

意志に満ちたシンプルな真理である。

楽しくあろうとする心が不幸だの理不尽だのの圧力に負けたらおしまい。糸子が、理不尽の圧力にも戦争の酷さにも、いつでも「負けるもんか、楽し いことあきらめるもんか、生きてやる、死ぬもんか!」って泣きながら楽しい明るい方角を目指して突き進む。その真理とはこのふかぶかとした切なさでもある。

Bee

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2013年11月 5日 (火)

「僕の生きる道」草彅剛

「僕の生きる道」

草彅剛主演、2003年の連続テレビドラマである。

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…もう10年も前になるのか。

高校生になったあたりからTVをだんだん観なくなっていって、大人になってからはドラマなんて数えるほどしか観てないと思う。けど、これには夢中になった。今までで一番かもしれない。

当時、第一回だけ見逃していたので、いつか最初から全部まとめて見直そうと録画をパソ君の中にしまいこんでおいた。

「今度といつかとオバケは出ないもんだ。」

と以前ボスによく言われたが、この「いつか」が来るときもたまにはある。10年後の今日、ダアと数夜かけて一気に観てしまった。

…やっぱりよかった。(ホウ)(タメ息)

  **** **** ****

ということで、ヤマモモ、つよポンの「僕の生きる道」に再びハマったんである。

そして今回一気に見たことで、リアルタイムで見ていた時には自覚していなかったこのドラマの大きな骨組み、そしてそこからの多様な物語の倍音を響かせるこまかな仕掛け、その構造が以前よりも見えてきたように思う。

今ここでは、とりあえず二つだけ書き留めておきたい。

まずは、このテレヴィドラマのおおまかな骨子、三部構成が吉本隆明の「共同幻想論」における「三つの幻想領域」という考え方にぴったりハマるものであることに気づいたということ。そして、第二に、小技としての高校の授業のシーン、その授業内容とドラマとの関わり方という仕掛けのことだ。

気づくと深まる。あ、と気づいたその瞬間、じいん。ついうっかり、感動。

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ーさて、共同幻想、ということ。

吉本隆明のこの著書は壮大な国家論、イデオロギー的な論旨が展開される難解なもので、有名な古典だからって学生時代に確か読んだっけ読んでないっけくらいの記憶、ほとんど全て忘れてしまっている。

が、ここで重要なのはただ彼の示した大まかな三つの幻想領域という思考モデル、概念だけである。

(本当は、この「幻想」というターム(用語)がセンセーショナルで味わい深いものなのだ。「概念」「思い込み」「信念」による「概念と存在」の関係性という論理のニュアンス、唯心論的な有と無の関係、存在論を示唆しているようだ。だがここでは深い意味にとらわれず、とりあえずは「考え」「概念」というニュアンスで捉えてよいと思う。)

つまり、彼の提示したのは次の三つの領域である。

1. 自己幻想

( 個人と個人の関係。芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。)

2. 対幻想

(個人と他者とのプライベートな関係。家族・友人・恋人がこれに当たる。)

3. 共同幻想

(個人と他者との公的な関係。国家・法律・企業・経済・株式・組合がこれに当たる。また、宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。)

  **** **** ****

「僕の生きる道」は、胃がんにより、余命1年と宣告された高校教師中村秀雄の物語である。

「死」を意識することにより明確に限定される「生」の輪郭。

それまで無難で凡庸な己の人生を自負しながら日々を流してきた28歳独身の高校生物教師が、残りの人生を自覚的に精一杯に生き抜く、そのめざましく濃い1年を描いている。

「1年って28年より長いですよね。」

死の宣告により、自己の人生の意味がまるごと問い直され見つめなおされる恐怖と苦悩の第一段階、そして新たに余命を生きなおそうと決心したときスタートする、もう一つの自己愛としての、他者、家族=恋愛問題。

更に、それらがすべて解決し美しくまわりだしたように思えたときはじめて大きくクローズアップされてく る、周囲の人々、生徒たちとの深い関わり、関係性、社会性、共同幻想。

主人公のみならず、彼の生き方への真摯な自問の姿勢は、周囲の人々すべての人生の欺瞞、惰性と日常性をはぎ取り、改めて根本からその意味を問い直すものとなる。

ドラマは主人公、恋人、仕事場の仲間、これからの人生に悩み受験に悩む多感な生徒たちすべての人生を、三つの領域として区分けして提示し、ひとり(秀雄)からふたり(秀雄とみどり)へ、そして周囲のひとびと全体へ、と、すべてを相互に絡めながら、最終的には一丸となって共同幻想体の祝祭としての大いなるクライマックスへともりあがってゆく。

それが秀雄が提案し、生徒たちとともに情熱をかけて挑戦する合唱コンクールである。

秀雄の子供の頃の最初のうつくしい憧れ、思い出、夢、美しい讃美歌。そのきわめて個的で内的な記憶と幻想であった「歌」のイメージが、現実の多数の新しい子供たちの人生へと大きく広がり、合唱は受け継がれてゆく命と夢の姿として現前するのだ。

…すべてが巧みに伏線を張られ、絡み合いながら順序立てて合唱のヤマ場を構成してゆく見事なつくりではないか。

「自己幻想→対幻想→共同幻想」。「1→2→∞」
これはまさに三つの幻想領域の構造に見事に当てはまるドラマである。

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さて、第一部のヤマ場は死の恐怖、自棄から自殺未遂に至るこのシーンだ。

死の宣告。
何故うまれて生きてきたんだろう、そして何故それが突然理不尽に奪われるのだろう。

孤独、恐怖。生きる意味を必死で模索し、快楽の蕩尽に絶望する。

言葉の無い幻想的なシーンの繋がりの中、十字架を思わせるポーズで、彼は崖からゆっくりと落ちてゆく。

この後助けられ、母、医者との対話、過去の思い出により、生まれて生きるただそれだけのことに深く激しい意味を見出す。(私はこの孤独で利己的で暗い苦い第一部が一番好きだ。
人生へのまるごとの疑念から出発する絶望からの神への問いかけ、叫びを、内的な幻想シーンを交えて描き出してみせる。

第二部は同僚のみどり先生との恋愛、いわゆる恋愛ドラマ的要素が濃いパートだ。

真摯に生きなおそうとする姿勢、仕事への熱意、第一の領域と第三の領域が一体となった生き方の姿勢が、第二領域としての恋愛、対幻想、みどり先生の心、存在をつかんでゆく。恋愛成就、余命の告白、一年も持たないと知りながらの結婚。

50年分の幸せを1年に凝縮して過ごそうと誓い合う二人の生活は切なくも美しく甘い。純粋に幸福であればあるだけその確実な喪失の予感は痛ましく胸に迫る。

彼らの生き方は、ひとは本来、日々を必死で幸福であろうとしなければならないのだ、という、日常と惰性をそぎ落とされた真理を周囲に気付かせる。そして、その心の共振が第三部の共同性へとつながるダイナミクスとなってゆくのだ。

1と2と多数は、常に互いに影響しあいながら関係性の中にその存在の意味を確立してゆく。

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さて、もうひとつ気付いた、この三部構成、骨組みとしての構造とは対極にあるもののこと。

小ネタ的ではあるが、例えば高校の授業シーン、その内容に関してである。

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…みどり先生の国語の授業シーン、漱石の「こころ」だ!

と気づいた瞬間、実は感動してしまったのだ。

これはあまりにも巧い。

ドラマの中では、チャイムが鳴って授業が終わるシーンの直前、Kが自殺したのを知った先生の独白の部分が使われていた。

「もう取り返しのつかないという黒い光が、私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らしました。」(新潮文庫昭和58年版仮名遣い)

という部分だ。

「こころ」でのKの自殺場面である。Kを裏切り追い込んだ「先生」の心をこの先の一生を照らすものすごい絶望の闇の永遠と一瞬のクロスするシーン。

このテクストの衝撃のシーンは、秀雄の余命一年の宣告シーンのショックと重なるものである。が、ここにはそれ以上に「こころ」の物語構造そのものと重なる仕掛けがある。

そうだ、「こころ」で、「先生」は、先生を慕い、その過去を知りたがる若い学生の「わたし」に、自殺(おそらく)する前に初めて過去を物語る(手紙を書く)。

己の過ちを、己の暗い過去を、己の血を「わたし」に浴びせかけるようにして。そういう教えを、物語をするのだった。

この構造は、倫理的には逆(秀雄は暗いものではなく美しいものを物語る。)だが、「僕の生きる道」の秀雄の生き方が、生徒たちへと引き継がれる構造に重なる。

秀雄の死後五年。

最後まで秀雄に反発していたクラス一利己的なエリートガリ勉君が、秀雄の死によって己のぶち当たっていた壁を乗り越え、新しい人生を、生き方の示唆を得る。そして秀雄の後を引き継ぐようにして同じ学校の教師になった日。

秀雄の死を浴びせかけられた若い命が、その死を(=生)として己自身新たに生まれ変わり、再び次代の若者たちへと秀雄の物語を語りはじめる。後日談としての最終回。

秀雄の生き方、命そのものが次代の心へと引き継がれた、そのような形での、命の永続性をこの構造は訴えかける。

…ああ、このドラマは「こころ」への一種裏返しのオマージュでもあったのか。授業の一コマのシーンは、私の中で、ドラマ全体の意味を深い色に染め上げた。

「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。」(こころ)

秀雄が生物の教師であり、命の発生の仕組み、DNAの構造の授業シーンをしつこいほど映し出していたのも、ここに重なることができる。永遠への命の連なり。

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ううむ。これからもう少しTVや映画、リハビリして観ていこうかな。いい映画のことなんか知りたくなってきた。なんて思ったりする、秋の夜長。

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2008年8月22日 (金)

崖の上のポニョ

面白くない、ということは、決してない。

ジブリの面目躍如。
楽しいきれいかわいいアクション、ヒューマン。

…だけどね。

やっぱり、あまりにも、子供向け、という印象。
しかも、子供をいささか軽く見すぎているのではないかなあ、というような…

隣のトトロ系統、といえばそうなんだけど。
申し分なく可愛らしく心温まる映画だけど。

それだけ。

ウン、やっぱりやっぱり、ラピュタ、ナウシカ、千と千尋、ハウルなんかとちがうとこは、世界の構成、存在そのものへの矛盾、それへの哀しみや自己の裏側への不安、やるせなさ、そういう深みからくる必然のファンタジーではなく、湧き上がる世界への賛歌というでもなく…

寧ろ、モチーフとしての、ゲームのアイテム的な地球環境のテーマ、(人類、文明は悪、の説)、煩悩や根源的な衝動、自然の驚異・大いなる力、といった崇敬、(トトロには、もっと森への崇敬と親和の調和した要素があった。例えば、もっと硬派にすれば、もののけ姫に通じてゆくような。)そのやるせなさにさえよらない、半端に人為的・極めて偶然的な、説得力のないままの世界の危機とそこからの回復というテーマ。(例えば、ゲームを面白くするためだけの。)

これは、「森」のテーマが「海」に変わった、という違いのためだけではない。

イヤ、充分、海の神秘の描き方の美しさ、その輝き、ダイナミクス、魔法のモチーフ、ストーリーの盛り上げ方は、素晴らしく美しい、楽しいものなんです、念のため。

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2006年10月19日 (木)

「チャングムの誓い」と「僕の歩く道」

 さて、当然この二つのドラマには、放送期間がわずかに重なっており、私が週に二つもテレヴィドラマを観るという非常事態に陥った理由となったという以外、何らの共通点を見出すことはできない。

 寧ろ、激しく相反するタイプ、ドラマとしての「面白さのタイプ」のベクトルという観点からみれば、正反対なもの、両極としての好対照をなしている、といえるのではないかと思う。

 片や、お茶の間の主婦御用達、韓流通俗エンタテイメントドラマ、片や、社会派問題提起型文部省推薦スノッブ派御用達芸術派ドラマ。

 …そうして、この二つともが、双方困ったことに、文句なしに、非常に、「面白い」んである。

 …ということで、一体、では「面白い」と感じるということは、どういうことなのか、と、つらつら考えることになる。

 何しろ、まずは、「おお、これぞ、物語!」派の、「チャングム」。

 これでもかこれでもか、の、扇情的興奮エピソードてんこ盛りの韓流ドラマに共通する特徴とは、一体何か?

 それは、おそらく、その慎みがないほど「社会的にプリミティヴ」な、人間の根源的にして素朴な欲望を、パワフルに刺激する面白さに満ちた「物語性」なのではないか、と思う。

 そして、このドラマも、ご多分にもれず、そのプリミティヴな「物語性」の王道をゆく。

 正統派韓流ドラマの多くは、いくつかのパターンとしての「物語」の組み合わせで成立している。つまり、たとえば、必ず出生の秘密があり、事故で記憶を失い、紆余曲折(試練+解決)を経て、「ご褒美」としての「運命の異性」を得る、という構造である。
 これは、恋愛譚→恋愛至上軸を人生の中心に据えた、ハラハラドキドキ波乱万丈人生ストーリーの原型だが、チャングムにおいては、寧ろ恋愛の方がアクセサリー的な副えものであり、一女性の波乱万丈立身出世「太閤記」的成り上がりストーリーがメインの軸となる。宮廷での、「大奥」的な女の戦い、権力闘争に、自ら望むこともなく、ひたすら他の醜い欲望に巻き込まれる才色兼備の主人公の、魂に一点の曇りもない、出来過ぎ君にひたむきに美しい一生。

…そして、これらドラマすべてに共通するキイポイントとして挙げられる特質は、大長編大河ドラマであるにもかかわらず、いつ、どこから見ても、面白い、という点である。

 主人公の成長譚から、その各々の成長過程において、多数の物語の原型パターンのバリエーションを、変幻自在に移りわたってゆく手法のせいだ。

 幼少の頃の、貴種流離譚的(もともと上流、尊い生まれ(或いは、これは、もともと、選ばれし者として生まれついた、という、優れた能力、優れた人格としての尊さである、というバリエーションをもつ。)の者が、不当に下々の間に生きている状態。やがてかぐや姫のように「上」に戻ってゆくのが基本のストーリー。)な伏線を織り込んだ子供の可愛らしさを交えながらのエピソード、そして、技能、人間性を磨いてゆくスタイルの、成長譚(実はワタクシ、前半はまったく観ていないのですが。)。
 手法としての、スレテオタイプなイジワル性悪悪役ライバルとの相克は、物語のはらはらドキドキのダイナミクスの基本として、レヴェルを変えつつ、常にアリ。
 宮廷に上がってからは、そのステージは、料理のウデ。絶対的に有能なチャングムが、試練を越え、いかに技術を「正当な苦労と努力でもって」習得してゆくか。この、「正当な」、という快さがツボになる。苦労をした後の技能習得という「報酬」は「正当」である、というある種、免罪符のような絶対性が、女優さんの外見的な美貌の条件と共に、「愛されるヒロイン」の条件なのだ。
 大河ドラマの大きな流れを追う中で、一時間のエピソード中では、毎回毎回、盛り上がる、「小ヤマ場」が設けてある。常に、目の前の事件にハラハラドキドキで、その度にホッと解決する。そうして、終わりには、次の波乱の予告。それらすべてが、たくさんのエピソードとなって大きな流れの伏線をなし、その都度小物語は面白く、さらに大きな物語の流れに組み込まれてゆく…毎週の水戸黄門的な快楽を追うシステムは、小さな物語の面白さの組み合わせ構造から成立しているために、「どの段階から観はじめても、面白い」、ということになってしまう。

 …何しろ、激しく暴力的な面白さなんである。

 
  …で。

 それじゃあ、万人に共通して「快い」「面白い」プリミティヴな物語性とは、どんなものなんだろう。

 人間には、生まれおちてから、不可避的、そして多くはヒエラルヒーとしては不可逆なかたちとして、次々と獲得してゆく、「欲望」がある。
生存の安全の欲求、睡眠欲、食欲、身体的快楽。そうして、それらが確保された後のその次が、社会的欲求の、ファーストステップ。

愛されたい、価値あるものでありたい、絶対的に美しく正義な存在でありたい、あらゆる価値観からの最大公約数的な美徳を備えた、誰からも特別なものでありたい、位が上の者でありたい。…その、エゴイスティックな劣情をダイレクトにそそる、最も簡便で直接的な方法論がある。

 名誉のために、志のために、道徳のために、倫理のために、ヒエラルヒーの下位レヴェルである、己の自然由来の身体的な生存欲求を殺してみせることだ。
 
 第一義のエゴを敢えて犠牲とすることによって、暴力的に上位価値体系での絶対的優位を証明する手法である。

 他人のため、愛のため、倫理のための「自己犠牲という物語」である。
 ドラマの多くは、この原理を、お手軽で効果的な扇情のための手法として使う。

 だが、そのドラマが優れているかいないか、という評価は、それが、いかにオリジナリティを獲得し得ているか、換言すれば、自己犠牲の痛みと崇高さという、「意味と物語」の発生するダイナミクスの源泉を、どれだけ、個々のオリジナリティとして感じなおし、新たに創造しなおし、生みなおしているか、というポイントにかかっている。
 韓流ドラマが、一般に、その通俗性をもって鳴らす理由は、これをお手軽な手法として頻繁に用い、源泉の痛みの深みに沈み込む強さを持たないまま、手垢のついたステレオタイプとして扱っていることが透けて見えるからという点につきるだろう。
 

 …いや、だが、本当は、それは、おそらく、寧ろこんな風に意地悪な言い方をする必要はないことなのだ。

 まっすぐに言えば、その絶対善としての主人公が自分である、と決める必要もないところにある心理には、寧ろドラマをみる観客の、無条件にして無私無欲な、「真善美への欲求」の美しい「性善」を見ることさえもできる。

 美しい、正しい、優しい、強い、有能な、快いものが、降りかかる不条理の苦難を乗り越えてゆく痛快さは、単純に快い。
 
「正義が勝つ」水戸黄門やウルトラマンシリーズと同レヴェルの痛快。正義の快感である。

 貴種流離譚的な、波乱万丈、スリルとサスペンスのアクションに満ちた物語は、見事に巧みであり、…秀逸である。

 だって、通俗パターンをつかえば、誰でも何でも面白くできる、というわけではない。優れたエンタテイメント性とは、いかに万人の心を揺さぶるか、その「最大多数の最大幸福」のような政治的に優れた才能を必要とする。

 そうして、さらに、我々はそこで、自分の涙の出所、感情の出所について考えることもできる。
 万人に共通する自分の感情は、「通俗パターン」に揺さぶられる感情は、一体自分のどこに存するのか?

 そうして、世界の、あらゆる弱きもの、少数派への無理解と暴力、目に見えない大衆の暴力が、どのような共通の構造を持って生まれ来るものなのか?我々はおそらく、その構造を、すべて、自分の中に発見することが出来る。

 …ここで、私は、比較対照として、「僕の歩く道」(「僕の生きる道」シリーズ三部作)を取り上げる。

 …というところで、ワシは疲れました。

 「歩く道」もちっと観すすんでから、また、そっちの方も感想を綴ってみたいです。

 私は、とりあえず、チャングムのおかげで、自分の中に、万人に共通する心性と、そこからはみ出すものとしての、個的な心性の存在を、差異として意識し、自分(或いは自分という世界認識)というひとつの混沌から、双方の存在を評価し、自分の世界の、日々の感情の出所を、楽しく分析する言葉を探ることができたんではないか、と思っている。

 面白いたあ、そういうことよ。

Cleaner サングラスをして掃除をする写真は、きっと、世界でも少ないであろうと思い、高校の頃の自分を公開する。

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