2019年3月14日 (木)

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

プロローグの立ち位置   

本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。

本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。
 
乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。

池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。


生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。

これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。

前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。

ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。

福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス。
 
この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。
矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。

これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。

本編、対談~「逆限定」(第三章)

で、本編の対談である。

まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。

対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。

…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。

例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。
で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。

「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。

つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。


時間と空間の本質を、生命とエントロピーのダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。

あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。

(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)

とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。

それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。

でまあ、それはそれとして。
 
とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。

存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。

 
それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。

西田の生命論理(第四章)とそれ以降

…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。
「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。
 
否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                      …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。
 
あとひとつ、特筆しておきたいこと。
 
福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。

時空論~宮沢賢治との共通性
 
第四章の続き、時間論を語る箇所である。
 
生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)
 
過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。
 
切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。
 
「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)

なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。
 

そして、どうしても思い出すのだ。
我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。

 
春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。
 
「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」
 
絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。
 
「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」
 
過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。
 
我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。
 
賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。

 *** ***


とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。
 

「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏)

そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。

あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。   

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2017年8月16日 (水)

「福岡伸一、西田哲学を読む~生命をめぐる思索の旅」

プロローグの立ち位置   

本書を理解するにあたって、冒頭に置かれたプロローグ、及び第一章導入部の在り方は非常に重要な助けになる。

本編は全編を通して、専門の哲学者の池田氏と哲学に関しては門外漢としての生物学者福岡氏の対談になっているのだが、何しろ難解である。このプロローグ及び第一章の導入部分は、それを理解するための福岡氏の生物学を通した生命観、その思想のスタイル、そしてそれらと西田哲学との共通性がわかりやすくおおまかな概略として述べられているのだ。

本編では、福岡氏が、読者と同じ立場、哲学門外漢としての立場から、哲学専門である池田氏の西田理解について質問する、というスタイルをとっている。池田氏の語る難解な西田独特の述語に関しては理解できるまでそれを徹底的に質問攻めにし、読者に寄り添いながら西田哲学を読み解いてゆく。彼のこの態度が、やはりこれ自体も難解である本書を読みぬくための案内の役割を果たしている。

乱暴な言い方をすれば、このプロローグは殆ど総論である。対談はそれを実証してゆくための各論である。すなわち、プロローグ=結論である、という言い方もできるだろう。

池田氏との対談は、そこに行き着くために、生物学的な図解的説明を哲学一般、そして西田哲学の難解な独自の専門用語と比較しあてはめ解釈してゆく道行きとして読み取ることができる。

生物学的なアプローチとはいっても、それは、福岡氏の打ち出している独自の生命論によっている。すなわち、生命の定義を、外的にその属性を規定することによってではなく、生命の内側から考えた本質としての「動的平衡」であるとして規定するその生命論の在り方である。本書はこれと西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」という存在の論理の在り方を、全く同じ構造として読み取ろうとする。

これは非常にスリリングな西田理解のアプローチであると思う。難解な概念、難解な独自の言語が、生物学的生命論の在り方のアナロジーからスッと理解できる、その解釈の道筋の可能性を得る。

前提とされるわかりやすい二項対立の提示がまた理解の助けとなるものだ。
ピュシス(自然、あるがままの矛盾をはらんだままの全体性、混沌の世界)、とロゴス(人間の認知能力に合わせそこから抽出された合理的世界)。

ピタゴラス以降の西欧哲学や科学が「無」或いは「無意味」であるとして切り落としてきたその「全体性」としてのピュシス、ロゴスのマトリックスとしてのピュシス、そこに目を向けるところから西田哲学は始まるのだ。

福岡氏の主張「動的平衡」としての生命とは、蛋白質を含むとかDNAを含有するとかいう、「外部」から属性を規定される定義としての生命観ではなく、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という性質をもつものだ。つまり、中身としての物質的な実質は流れ変わってゆくものであっても、同じ形を、働きを保つ、その絶えず入れ替わり動きながら保たれる性質そのもの、を指すダイナミックな生命観である。細胞はすべて入れ替わってゆくが、記憶も人体もその性質は保たれる。動的でありながら、平衡が保たれる。ホメオスタシス。

この不思議さを、世界の在り方そのものにあてはめたのが西田哲学である、と、乱暴に言ってしまえばそういうことかもしれない。

矛盾をはらみ、故に相克と反転を繰り返しながら「存在という現象」をつづけるひとつの全体、その「自己同一性」。常に細胞が自己破壊と新たな製造を続けながらエントロピー増大と縮小の両方向に向けて活動することによってのみ「平衡」を保つ、すなわり「動的平衡」性を本質とするものとしての生命。

これは、哲学、生物学に限らず、多様な分野からのアプローチによって普遍性を獲得する論理を指し示すものであり、世界全体が、おおいなる生命として見えてくるような、そんな手がかりをくれる本かもしれない。

本編、対談~「逆限定」(第三章)

で、本編の対談である。

まず注意すべきは、質問される立場にある池田氏は、言葉の認識が西田哲学に既にアプリオリに同化している状態になってしまっている「専門家」である、という点である。故に、彼の説明の言葉は素人にはいささかわかりにくいのだ。論理がなくなったところに飛躍がある。重大な西田哲学の述語である「限定、逆限定。」を、「包み、包まれること」と説明し、ホラそうでしょう、と何の説得力もない例示でもって繰りかえす。仕方がないと言えば仕方がないのだ。これは確かにロゴスからピュシスへの感覚の移行というレヴェルの問題、主体が拠って立つ世界観の問題だから、どこかで論理はロゴスからピュシスへとジャンプしなくてはならないのだ。

対して、福岡氏は読者に寄り添い、徹底してわかりにくいところを質問してくれる立場をとる。そうして議論は深まってゆくものとなるのだが、まあこの過程がおもしろいと言えばおもしろいともいえるだろう。徹底した科学者の立場、ロゴスの言葉で問い詰めることによって、どこまで「不可知」を標榜するピュシスの輪郭に迫れるか。

…が、結局。
やはりそう易々と理解に至る、というワケにはいかないものなのだ。あちこちに障壁がある。

例えば、西田の「逆限定」という概念を説明する池田氏の「年輪の喩え」のところ。
今まで順調に読み進めていたのに、ここで躓いた。そしてそれはまずは福岡氏も同様であった。

で、しかし福岡氏。ここでかなり執拗にひっかかって食い下がって質問してくれていたのに、池田氏の、ほとんど堂々巡りのような説明の中で、突然ジャンプして解決理解してしまう。池田氏と同じ「向こう側」の言葉を語り始める。説明の喩えの中のなにかが腑に落ちてしまったのだ。が、読者としてはここで置いてけぼりになったような印象を受けた。

「逆限定」を説明するための、「環境が年輪を包み、年輪が環境を包む」、という喩えに関する論理は、やはり論理としては跳躍している、この唐突の感は拭えない、この肝心なところが自分には今どうしてもわからない。もどかしいくらいわからない。福岡氏が換言して説明してくれる生命の喩えは気持ちよくわかるのだが…。

つながりのイメージはおぼろげに見えるような、いやしかしまた見えなくなるようような、で、どうもぴしゃっとこない。やっぱりここがハードルなんだろな。ここは幾度も読み返し周辺知識を広げこなしてゆかなくては、というのがとりあえず自己課題である。

時間と空間の本質を、生命とエントロピーのダイナミクスに根差したものとして、もっときちんとイメージできなければこの喩えの意味を解釈、理解できないんだろうと思う。

あと、おそらく周辺知識をしっかりもってないと難しい。池田氏は微妙に否定したけど、量子論的な思考との繋がりもあるような気がする。「世界(=この場合、生命の世界)は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なり合った世界であるといえる。(p180)」の、この福岡氏の記述の「重なり合った」可能性の世界構造みたいなイメージが。この辺りはただのカンなので、知識を広げてみないとなんともいえないけど。

(でもね、よく読んでると、池田氏の言葉は微妙にズレていったりして、言ってることが違ってきてるとこがあるんだよね、これで翻弄されてわかりにくくなってくる。)(てゆうか自信ありげに言ってるけど、福岡氏の発言について、その言いたいことを忖度して考えながらずらしながら言葉を返していってるんだよな。議論は双方にとって深化している。)

とにかくやっぱり西田哲学、難解だ。

それにしても「年輪」、引っかかるなあ。ということで、ひとつおぼろげにイメージしてみた。…この生物イメージモデルの理解で方向性正しいだろか。…樹木の側が細胞であり多の側であり環境の側が細胞の総体、全体性としての個体であり一の側である、と。そうしたら少しわかる。関係性。で、だとしたらやっぱ喩えとするには不親切すぎるよ、説明が。池田センセイ。

でまあ、それはそれとして。

とにかくここで、福岡氏の説明する「細胞膜」の本質と西田の言う「場所」という、AとノンAの「あいだ」の思考のアナロジーが述べられている。これを組み合わせてゆくと見えてくるもの。…ここが非常にスリリングに面白い。世界がぱあっと開けてくるような新しい風景が見えてくるような気持ちになる。

存在と無の間、内と外が反転する「場所」、矛盾の吹きあがる「場所」。これは、いわばアルケーの場なのだ。なにもかもが始まる、存在の吹きあがる、そのはじまりの場所。

それは、差異と関係性の生ずる場所なのだ。

西田の生命論理(第四章)とそれ以降


…というようなことを考えたところで、ドンピシャの章が次に来た。福岡氏面目躍如、西田の世界論理(時空の本質定義)を生命として読みかえる思考の作業である。

「相反することが同時に起こっている動的平衡の状態」=「矛盾的自己同一」
細胞同士の、破壊と合成、多としての細胞とそれらの総体、一としての全体の個体。それらは、お互いに作られたものから作るものへ、という反動、反転、食い合い、否定しあう関係の流れの中に成り立つ動的な生命観であり、これがすなわち西田の観る世界である、という解釈がここに非常にわかりやすく説明される。「逆限定」という関係性のイメージの躍動感もいきいきと浮かび上がってくるのだ。

否定しあい、既定し合う矛盾というダイナミクスとして「存在」という「コト」「現象」が成り立つ。物質「モノ」としてではない、生命の内側から見る本質がそこに見出される。
                                                            …で、ここから先は、難解なことは難解で、消化できてないって言えばそうなんだけど、何度も読み返さなくてはならないとこではあるんだけど、概ね結構抵抗なく納得しつつおもしろがりつつすいすいと(とは言えないが)いける。本来一つである現象をさまざまに分析していこうとするとき難解さがうまれるのだ。どのようにそれを表現するか、によってさまざまに応用の効く理論が立ち現れ、矛盾と躍動と調和を繰り返す世界の豊饒が開かれてゆく。

あとひとつ、特筆しておきたいこと。

福岡氏が西田の「ロゴスとは世界の自己表現の内容に他ならない」という記述に関して疑問を述べたときの、池田氏との対話の中でピュシス対ロゴス、の対立の構図がピュシスのロゴス的解釈、という論理を取り出してある種の止揚をみるところ。ここは非常にうつくしい。

時空論~宮沢賢治との共通性

第四章の続き、時間論を語る箇所である。

生命と時間の関係に切り込んでゆく箇所で、「時間(時刻)」がこの矛盾的自己同一の現象である、っていう、流れゆく時間とその断面の一瞬としての時刻を矛盾のダイナミクスをもってトータルにとらえる時間論(空間論)(=時空論)、この生命論的な考え方はなんというか、感動的ですらあった。(p172)

過去と未来、現在の関係性、そのあり方を生命の内側から捉えて行く。

切り取った時間の断面としての一瞬の現在、その時刻としての空間性、そして流れゆく連続としての時間。この二つの時間の性質の矛盾を統合した「永遠の現在」としての「絶対現在」という西田の時空論の、その感覚。

「『絶対現在』は、西田においては『永遠の今』などともいわれますが、一般的な立場では、時間の流れのまま、過去・未来を『現在』の中に見ることなどできるはずがありませんね。西田は、時間というものを瞬間としてとらえるでしょう?要するに、『非連続の連続』なんです。」(p211池田氏の説明)

なんかね、読んだ後、とりあえずすべての現象はこの構造でとらえられるような気がしている。

そして、どうしても思い出すのだ。
我田引水な例ではあるけれど、宮澤賢治が「春と修羅」で行った心象スケッチという実験の描き出した時空モデル、その思想を。確固たる物質、モノとして捕らえないコトとしての存在、「わたくしというげんしゃう」意識を。

「春と修羅」の「序」を見てみるといい。
まさにこの「動的平衡」という現象としての生命観とぴしゃりと一致している。

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」

絶えざる破壊と合成が行われる細胞、そのうつろう物質の流れ(仮定された有機交流電燈)の中に「照明」としてせわしくせわしく明滅しながら(有と無の同時存在という矛盾の中にあり続けながら)ともりつづける(存在する)生命ー世界観である。

「けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」

過去と未来が矛盾的に同一となったところにある「絶対現在」、そして「非連続の連続」という言葉から思い浮かぶのは、この箇所なのだ。

我々が共通に知覚しているという「因果の時空的制約」という人間中心ロゴス世界を観念論として「かんじているのに過ぎません」と喝破し、その外側の無限の豊饒としての「ピュシス」を直観する実存的思考である。

賢治のこの世界観は、法華経の教えに拠るところが多いという。
日本仏教思想と近代西洋哲学の融合を目指し、禅宗への造詣も深かったという西田哲学と同じ志向をもった賢治の世界観が共通したものであるのは、蓋し当然なことであるのかもしれない。

 *** ***

とりあえず結論としていうとバカみたいかもしれないけど、なんかね、結局ね、今現在、かけがえのないこの時の美しさを、世界と生命のおもしろさ、その存在の奇跡と大いなる不可知の存在を論理によって導き出し感ずるということ、その素晴らしさを謳ってるんだよね、西田も対談してる異分野のこのお二方も。

「西田哲学は『統合の学』としてとらえることができる。」p271(池田氏)

そう、科学も哲学も芸術(文学)もさ、さまざまのアプローチで。

あるいは、そうやってとらえようとする、それがわたしたち人間という生命の「ありかた」なんだっていうことを。 

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2017年7月18日 (火)

にんげんのこわれるとき

Haru

大学時代、すぽんと賢治にハマって、卒論も修論もテーマは賢治だった。

(漱石と賢治、春樹が好きとかもう何だかギョーカイ内では安っぽいミーハーちゃん扱いである。ゼミではみんな結構いかにも自分文学好きだぞな玄人っぽいシブイ作家を取り上げてた。永井荷風とか谷崎潤一郎とか横光利一とかさ。)

確か修論は「小岩井農場」を中心に論じた記憶がある。

長詩である。(賢治に言わせると「心象スケッチ」な。)賢治独特の、日本では珍しいタイプの長詩。ダダイズム風の実験的なスタイルをもっている。(賢治はダダの影響も受けていて、「春と修羅」随所に視覚的な文字列の配置の工夫などもされている。実はカレって結構新しもん好き、実験好きなひとなのだ。)

あれこれ考えごとしながら小岩井農場を歩いてく実況中継的なスケッチ風の詩なんだけど、(実際に手帳にメモを書きつけながら小岩井農場を行ったり来たりしたらしい。)ごく普通の周囲の情景描写から、心の中に浮かぶ回想や想像、独白が入り混じって主体が分裂してゆき、だんだん幻想世界に移行していく過程がぞくぞくするほどエキサイティングなのだ。ひとが狂っていく過程もこれと似たようなものかもしれない、と思ったりしてね。

で、好きな言葉がある。(いやたくさんあるんだけど。)
 「幻想が向ふから迫つてくるときは / もうにんげんの壊れるときだ」

自我解体の危機に瀕した葛藤のシーン、クライマックス。

ここの解釈は本当にいろいろな説があっておもしろい。

見田宗介の「宮沢賢治」が大好きで、これで賢治にハマったようなもんなんだけど、ここでのその解釈は奮っている。得てして否定的にとらえられがちなこの「にんげんがこわれるとき」という意味を、この箇所を、あえて非常に肯定的にとらえているのだ。「にんげん」を「自我」としてとらえて解釈する。するとこれは自我解体の恐怖を意味することになる。が、それと同時に自我という牢獄からの解放という至福の時空への移行、この反転の意味を読み取ることもまた可能となってくる。彼はここを論の中心点として捉える。

この人の賢治はすごく魅惑的な解釈で学生時代はすっかりまるごと飲み込んじゃったんだけど、今ちょっと見てみたら、ここでは自説に引き付け過ぎていて、多少論理に強引さと無理がある。いやまあそれはそれでそれとしていいんだけど。この人のこの本の論理構成を成立させるには仕方ないとこだから。

…漱石の「行人」に、「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの3つのものしかない」という一節がある。「死か狂か宗教か」耐え難いこの世の業の苦しみ、自我の苦しみから逃れるための三つの選択である。

これは、「自我という牢獄」という視座をもっており、それは問題意識として先の見田宗介のものと一致している。死も狂も宗教も、「解脱」、すなわち牢獄としての<自我-この世>からの解放、自我放棄のための手法だからだ。

?賢治は、「小岩井農場」に於いて、分裂してゆく自我をそのまま表記し、五感が捉える外界風景と意識の内面のイメージが入り混じり溶け合うテクストを織りあげる。これが「心象スケッチ」という手法である。これによって、言葉の多元宇宙を出現させたのだ。すなわち文字通り「異議を唱え合うエクリチュール(ロラン・バルト)」の場を生成、バラけた自我をバラけたままに記述認識する。

そしてここからだ。ここでは、その混沌が極まったとき、全体の向かう方向性を敢えてトータルにコントロールしていこうとする新たなメタレヴェルの主体を発生させる仕組みが読み取れるのである。これは一種戦略的なエクリチュールのスタイルとすらいえるのではないかと私は思う。

この試みを、先の「死か狂か宗教か」の論立てにあてはめてみてみよう。

移りゆく時間と風景を眺めながら歩行する現実の主体を外枠にもちつつ、同時にそこから離れ遊離した意識の内面で、回想や宗教的な論争を繰り広げる分裂した複数の主体(自我)=多重人格という構図を織り上げる。そして現実意識を凌駕してゆく内面の幻想領域、という「狂」への危機的状態をつくりだしていく(或いは「(幻想が)向ふから迫つてくる」状態 )。

そしてこのクライマックス、ラスト近く「にんげんがこわれるとき」現れるのが次なる段階としての超越者的な声である。この声は、最初ちらほらとあらわれ幻想を警告する小さな声としてテクストの中につぶやきはじめ、そしてこのラスト部分にすべてを覆うようにして突如大きく膨らみ他を凌駕し統一し、高らかな意志の声でこのテクストを語り終えようとする一つの主体である。

 《もう決定した そっちへ行くな
      これらはみんなただしくない
      いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
      発散して酸えたひかりの澱だ

ただしくない「これら」とは、対立しあい混迷する複数の主体の見ている複数の幻想風景、多様な意見のことである。エクリチュールのカオスな動きの中で、残虐な現実側の回想に捕らわれ自我の業に苦しむ主体(具体的な人間関係の軋轢の回想、妹を失った悲しみのフラッシュバック)、そしてそのアンチテーゼ、現実世界を嘆き否定し理想世界への解脱のみを願う主体(幻想の美しい仏教的天上世界のイメージ)を共に否定しながら、それらを止揚したメタ次元として、双方が「ただしい」かたちで存在する世界に向かおうとする。これはそのかがやかしい宗教に裏付けされた新たな外界現実に立ち戻ってゆこうとする強い意志の発揚である。

さあはっきり眼をあいてたれにも見え
   明確に物理学の法則にしたがふ
   これら実在の現象のなかから
   あたらしくまっすぐに起て

業の苦しみに満ちた現実世界、そしてそれを否定する形での遊離してしまった「宗教」的幻想。それらをすべて解放して言語化し、その分裂した人格としての場「狂」を経るかたちで再びまったくあたらしい現実へと差し戻してゆく構造。ある意味これは「死と再生」のミッション。すなわち、祝祭(ハレ)から日常(ケ)再創造、或いはあらゆる宗教に示されている終末思想と相似の関係構造をなしている。

死と狂と宗教(にんげん《自我》の壊れる場所、或いはそこから解放される場所)。エクリチュールはこれら自我からの解放のミッションをなぞる。そしてけれど自我ー主体崩壊ー死という破滅のかたちには流れない。「にんげんのこわれる」ぎりぎりのところでジャンプを仕掛ける。このミッションによる新たな自我の獲得、ミクロな自我を克服した、マクロな超ー自我による世界イメージというステージの獲得への誘導の構造を構築するのである。

「ちいさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで」

心象スケッチというエクリチュールの手法によって、「ちいさな自分」ちいさな自我からの解放のツールとしての「死と狂と宗教」の取り込み、そしてそれが「生」と対立しない高次元の場で再構築された自我と世界の関係性、そのような大きな自我観へ至るための誘導が行われている。

それは、賢治の目指した「物理学」と「実在の現象」を統合した「ただしい」宗教の姿として謳われた。

…思うのだ。

これは、これこそは、もしかしたら彼が「農民芸術概論綱要」で主張しようとしたひとつの「芸術」(この詩の場合、エクリチュール)の姿そのものだったのではないだろうか。現実の読み替え、救済のツールとしての宗教=芸術である。


 *** *** ***

この長詩は、このように新たにトータルな形での宗教と現実を踏まえて進んで行こうとする意識の流れの記録、自我の苦しみと業をコントロールしていこうとするその心の道行きであるといえるだろう。

書くこと、エクリチュールを為すことの意味は、それが自己救済の手法であるところにある。あるいはそれはひとつの祈りのかたち、そのスタイルである、と言ってもよい。(卒論の方では、確かこのことが言いたかった記憶がある。書くことは祈りである、というような。忘れたけど。)

小岩井農場は長いんだけど、とりあえずラスト、クライマックスの「パート九」だけならそんなに長くない。ここに全文載ってます。

…でね。

こうやって力強く高らかに理想論を謳った後、最後の最後に凡夫としての「ちいさな自分」に戻るような、まっすぐでありながらもほんのりと揺り戻し的なイメージを持つラストがある。
大きな意思にみたされた高い次元を感じながらも、低いところにいる小さな個は決して失われない。

テクスト内での語り手と登場人物の視点の自在な移りかわりを利用して成立する「ちいさな自分」が見る風景とその主体を客観化して眺める、鳥瞰する二重の風景。この、めまいのするような視点の多重を利用したこの風景の深み、うつくしさは、常に大きな宇宙の中で「透明な軌道をすすむ」ひと(自分)を感じながら、現実のしがらみを生きる、現実の美しい風景を愛する小さな自分を感じ続ける双方への生命賛歌、世界賛歌への祈りからくる。そしてここに示される、切ないようないたましさと、ほんのりしたあきらめに似た優しさに満たされたものである高みへの意志。

この詩情、ここが好きなんだな、オレ。もしこれが詩としていいものであるとすれば(これは詩としては全然評価されてないようだ。研究対象ではあっても。…まああの珠玉の「永訣の朝」なんかに比べっちゃっちゃね。)、ここがあってこそだと思うんだな。

 

なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまってゐる
けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軋道をすすむ

ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかっきりみちをまがる

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2017年5月11日 (木)

「ホテルカクタス」江國香織

Book
「僕の小鳥ちゃん」、「ホテルカクタス」。
江國さん久しぶりに読み返す。
 
この人の作品は、やっぱりこういう童話風というか、いわゆる大人の絵本という感じの作風のが好きだな。
 
意味があるようで、ないようで。
…ちょっと気取ってるかな。
若い女性向けのお洒落さ、春樹的な気取り。
これをそういう情緒や雰囲気を楽しむだけのもの、としてとらえることだってできるけど。
 
だけどやっぱりきちんとひねりが効いてて、きちんと深みがある。
 
とりあえずこのひとは類まれなる詩的感性の持ち主で、あざといほど巧みでありながらポエジイにあふれた、そんな文体を操ることのできる人なのだ、と思う。濃やかな細やかな感情のひだの震えを的確に感じ取り、それを掬い出し救い出す。言葉と言葉の間にそっとひそませるようにして。
 
びいんと響いてくる感情。やるせなさや、切なさや。
 
そしてけれど、それを淡いさりげない日常としてとらえ「流してゆく」のがこの作品だ。
そして、その、流してゆく、許し合ってゆくという物語、それ自体に、淡々と流れる淡い日常そのものの価値がかけがえのないものとして読みかえるための力がある、のではないかと思うのだ。哀しみと無常を日常に包み込むこの感覚。それは治癒しない。傷を傷のままにそっとくるみ込むだけの「癒し」としての救済である。
その「なんてことなさ」自体のもつ深み。世界があるがままであるというその状態を、物語としてとらえること。そのほのかな切なさと慎ましい幸福を創造する力。
そうして、ナンセンスな味わいの中のほのかな諧謔。
人生、こんなもんだ。深くも淡くも。
 
…ぱたんと本を閉じて、ただほうとしばし優しい気持ちになる。
その優しさは、廃墟の無常の寂しさに少し似ている。
 
さまざまの世界の多様な価値観、他者という理解できない感性、理不尽、己のしょうもなさ。
 
けれど、ただそれをそれとしてともに感じ抱きしめている人がいる。お互いにその「理解できなさ」を認め合うことが、存在を、尊厳を認め合う「友情」として成り立っているということ、その感覚を得るだけで、自他を共にゆるやかに「許してゆく」優しい気持ちになれる。
 
 
作者は女性的な細やかな感覚で恋愛を主体とした作風をもっているとされているが、ときに不思議にファンタスティックな童話風のものを書く。(私はこれが好きだ。)「ホテルカクタス」のテーマはまさに「異種間の友情」なのだ。
 
これは一種いわゆるダイバーシティの基礎でもある。
 
まあ端的に言えば、「ま、それもあり、これもあり、だもんね。あのひとは、ああいうひと、このひとは、こういうひと。」
多様であるそれぞれのが、そのままそれとして認められ、救われている、許されている。異なる感性を持つ、価値観を持つ生物である誰かに受け入れられている。絶対ではなく、それぞれのゆるみをもって、或いは小さなうしろめたさを探られることなく許し合うテゲテゲさをもって。誰もそれを裁くことはない。
 
また、例えばそれは日曜夜のサザエさんにも似ているのかもしれない。それぞれの人々が様々なデイごとの中で仲良く調和しながら暮らす街の日常。永遠のイデア、永遠に続くその平凡な日常の幸福という非凡のこと。一冊の本の中に閉じ込められたその永遠。
 
 
 
 *** *** 
 
 
 
ホテル・カクタスは街はずれの小さな古いアパートだ。そこに住んでいる帽子ときゅうりと数字の2の奇妙な友情の日々の物語。
 
 
 
…何の説明もなく「帽子ときゅうりと数字の2」である。なんだこれは。
 
 
 
人物のキャラクターから名づけられたものであるあだ名的な呼び名かな、という想定の下に読み進めてみると、そうでもない。(くたびれたハードボイルド美学おじさん風の帽子は酒飲みで読書家、遊び人の風来坊だし、きゅうりはガソリンスタンド勤めの肉体派健康オタク、おおらかでこだわらない(深く物事を考えない)まっすぐな太陽の似合う性質、数字の2は役所勤めで融通の利かない几帳面な性格だ。)やはり帽子はかぶるための帽子であり、キュウリは緑色のぱりっとみずみずしいあの野菜のキュウリ、数字の2は概念が擬人化したかのような数字の2、そのアラビア数字の2のかたちをとったもののようだ。

にしても、この三人(人?)は社会的に人間として存在しているのだ。他の動物、例えば猫はちゃんと口をきけない動物としてのペットの猫だし、他の登場人物は人間である。三人が恋するのも白いワンピースの似合う女の人だ。

童話的構図の中での、キャラクターの性格付け。その奇妙なリアリティ。

メタファ。これを、そのままその言葉の意味のブレを利用して擬人化風にし、めくるめくナンセンスワールドに持ち込んでいる、といってもいい。これは、おもちゃや動物が擬人化される類のよくある童話的構図のようではあるが、この作品においてそれはもっともっと奇妙だ。筋トレが趣味のきゅうり(手足はどんな風についてるんだ?)、ウイスキーをたしなみ古いレコードを聴く帽子(どこに目鼻がついてるんだ?)、グレープフルーツジュースを飲む役所勤めの数字の2(いったいどこに口が…)。これは、絵本や漫画によくあるような、アンパンマン的にイラスト化されうるモノの擬人化とは異なる。安定した視覚的要素に帰着していかない、直接概念と意味のフィールドに切り込んでくる「コトバの力」にだけよっているというところにその特化した意味があるのだ。
 
 
 
 
これは寧ろ、キャラクター、人格の「記号化」、といった方がいいかもしれない。これは決して絵本にならない。(実はこれは美しい挿絵がふんだんに配された「絵本」になっているのだが、そのすべては何とも味わいのある陰影をもった寂しげな無人の風景、夢の中のような、がらんとした廃墟を思わせるアパートの内部の風景なのだ。それは実は一層本作の人物像の映像化の不可能性、固定された映像的要素になりえない記号としての三人、見える世界と見えない意味世界の間を揺れ動く二重の風景としてのキャラクター、という特徴を深めたものとなっている。)(この絵素晴らしい。画家は佐々木敦子さん。)
 
 
(この二重化された風景というテーマは、結構根深い。賢治の「春と修羅」「すべて二重の風景を…」主体の見ている意味世界、心象風景が現実世界を二重のものとする。…また、例えばそれは、昭和少女漫画の名作として名高い「綿の国星」などでは、仔猫が自分が人間の女の子であると信じているために、少女として描かれるという手法として現出している。主人公のチビ猫は、その自己認識によって、少女に耳と尻尾がついたイラスト?猫であることを示す「記号」》で描かれる。が、ごく自然に周りからは仔猫として見えており、そう取り扱われているという不思議な世界を描き出している。読者はそれを時に「仔猫」としての映像と読み重ねなければならない。猫の主観が、その真実を目に見える世界にダブらせて「翻訳」しているのだ。)
 
 
 
 
ほんの少し、ズレている。現実が、ほんの少し歪む。読み換えられている。…この奇妙な設定がこのひっかかり、この違和感、この味わいを出すテクニックとなっている。現実の風景を、少しだけずらして、そこにうまれる違和感を利用し相対化する視点を得る。
 
 
 
殆んどシュルレアレスティックといってもよい、人間としてあり人間としてない、三人。
 
視界が絶えず二重にぶれていくような、視覚的に成り立たないこの奇妙な風景を想像する脳内作業の感覚を読者は味わうことになる。
 
 
 
…そう、これは、ブレヒトのいう「異化作用」と同じ原理である。
 
この「違和感」ズレによって浮かび上がってくるもの。自明のものとして不可視となっていた日常現実という物語の客観、相対化。…違和を誇示する手法を述べた「異化作用」の効用、演劇によるその戦略と同じ手法、同じ効果なのだ。ときにそれはカリカチュアとしての効果も生む。
 
 
 
 *** *** 
 
 
 
三人の日常、その何気ない日々をスケッチのようにエッセイのように描いてゆく柔らかで軽やかな風景。そのエピソードはそれぞれ可笑しくも哀しく、そして愛おしく、味わい深いテーマを潜ませているが、就中「ある日曜日の発見」「音楽」は印象深い。
 
 
 
「ある日曜日の発見」
 
 
 
これは、毎夜のようにきゅうりの部屋に集まって友情を育んでいた三人が、偶然外で出会ったときのエピソードである。
 
 
 
場面は新緑の季節、すばらしく晴れた或る日曜の朝。雑貨屋に牛乳を買いに来たきゅうりと新聞を買いに来た数字の2がばったり出会う。やあ、おはよう、と、二人はそのまま公園に散歩に出かける。そこでの会話である。サングラスを頭にのっけたランニング姿のきゅうりは言う。
 
 
 
「きみは、おもてで見ると別人のようだね。(中略)まるでどっかの嫌味な役所づとめ野郎みたいに見えたから、あやうくきみだとわからないところだったよ。」
 
 
 
2は言う。
 
 
 
「きみだって別人のように見えたよ。いかにも筋肉自慢って感じで。(中略)どっかの、しゃれのめした不良かと思っちゃったよ。」
 
 
 
…文字通り、彼等は嫌味な役所勤めとチンピラ筋肉自慢なのだ。
 
だが、友達同士となった彼等にとって、そのペルソナは最早人物の本質とはかけ離れた要素となっている。一度友達になってしまうと、その人物の内面を知ってしまうと。…すなわち、社会の構成要素ではなく直接その為人に接触して関わりをもってしまうと、もうその外側からの他者の視点には戻れない。一度習得してしまった語学(コトバ)のように。
 
 
 
二人はベンチに腰掛けて、周りのひとたちに自分たちがどう見えているかについて考える。
 
 
 
「『嫌味な役所務め野郎としゃれのめした不良』の二人連れに見えるわけです。実際は違う、と知っているのが自分たちだけだと思うと、2ときゅうりは愉快な気持ちになって、くすくす笑わずにはいられませんでした。」
 
人が人を見た目、第一印象で判断する、社会的にカテゴライズすること、その一般化され仮面をかぶったペルソナと対象の人物の本質との乖離、その違和感のことをこの話は語る。社会化されたアイデンティティ。あるいは社会化によって成り立っているアイデンティティ。…それは例えば「DQNねーちゃん風」「真面目が取り柄の営業マン風」「いばりくさった加齢臭昭和オヤジ風」「スタバでタブレットを操るノマド気取りのエグゼクティヴ風」「セレブブランド好きOL風」「ざまあすPTA主婦風」etc、etc…ステレオタイプにとりあえず分類する一種の社会的共通認識のことである。そして誰もが多かれ少なかれ気にするところ、「果たして自分という人間はどう見えているのか、どこにカテゴライズされるものであるのか…?」
 
 
 
 
で、ここでの卓越は、ふたりがその乖離について「愉快でたまらない」気持ちになった、という展開である。
 
 
 
社会的ペルソナでのみ認識されるのではない自分自身、その概念からはみ出るもの。
それを本質といってもいいし、アイデンティティ、己自身の全体性を保証するものといってもよい。…とにかくそれは孤独な形では非常に危うい存在なのだ。たやすく他者の視線に取り込まれてしまう。他者の評価を絶えず気にするだけの存在となり、自分とは何か、とわからなくなる。
 
 
 
 
人間は「社会性のみで」存在するものにあらず。文学のテーマの真髄がここに隠れている。そしてここでは、それを誰かと分かち合っている、共有されている、という認識があってこそ、その、社会的ペルソナからはみ出た本質そのものが保証されるのではないか、という命題がある。純粋な友情、という優しい、あたたかな形で。
 
 
 
これは、友情、という要素は、例えば共同幻想論的なアプローチをするならば、「対幻想」的なカテゴリに属する。「共同幻想」が社会性であり、「自己幻想」が芸術性や個的なものを指すとするならば、両者をつなぎ共に保証するものとしての「対幻想」というカテゴリのメディア的な役割、そのバランサーとしての重要性がここに浮かび上がっている、というわけだ。三位一体としての「個」と「社会」、そしてそれを繋ぐ「メディア」、という世界モデル。(「対幻想」とは基本的に恋人や家族をその対象とするのだが。)
 
 
 
自己幻想だけでも、共同幻想だけでも、ひとは歪む。バランスを失えば、その乖離と軋轢に苦しむものとなる。自己幻想が暴走すれば他者を攻撃、支配するエゴイスティックな独裁者になるだろうし、共同幻想に食われてしまえば個としての己を見失い、システムの犠牲となる美学に食われたパーツとなる(人間は部品)。レーゾンデートルはシステムへの寄与。機能するものとしての己である。そして彼がその拠り所のシステム(国家や宗教的なるものとして考えられる。)を失ったとき、或いは心が弱ってしまった瞬間に、己の存在意義は失われ、その自己否定から、モラルハラスメントの被害者、ウツや自殺に追い込まれる側の人間になるだろう。どちらにしろ、それは徹頭徹尾、孤独を意味する。そこに個と世界を肯定的に有機的に結びつけることを可能とする愛情を基盤とした社会性、そのあたたかなもの、「対幻想」的なるメディアが存在しないのならば。
 
 
 
…さて、で、この話の結末である。
 
 
じゃあ帽子はどう見えるのだろう、と二人は帽子を呼び出し、やってくる彼を見た途端笑いだしてしまう。
 
 
2の目には帽子が「逃亡中の犯罪者」、きゅうりの目には「くたびれた、ただのおじさん」に見えたからである。
 
 
 
「でも二人とも、それが帽子と『別人』であることを知っていましたから、帽子には何も言いませんでした。(中略)『僕たちがみんな、知り合いでよかった。いまきゅうりくんと、そう話していたところなんですよ』それから三人は連れだって、すばらしくよく晴れた日曜日の公園を、カフェをめざしてぶらぶらと歩いていきました。」
 
 
 
 *** *** 

さて、もうひとつ。「音楽」。
 
 
 
これも、「ある日曜日の発見」に共通するテーマをもつ。
 
三人がそれぞれいつもひとりで聴いている大切な音楽を皆で共有しようとしたときの違和の発見である。
 
 
 
己の個としてのの内面を晒すことによって、他者の視線を自らの内側に取りこんでそこに内包されたものとしてしまう。社会化されたものではないところにある本質としてのアイデンティティが損なわれる、という現象。己が個として存在するための大切な部分、それをここでは一人で聴く音楽に仮託して表現してみせている。
 
 
 
日曜日のエピソードとは異なり、ここで焦点化されているのは自己幻想と対幻想の関係性、対幻想の及ばないところにある個の領域の神聖さである。そして、侵すべからざる領域をもつ、ということをそれぞれテゲテゲに許し合う、認めあうものとしての友情、対幻想のありかた。
 
 
 
自己幻想、対幻想、共同幻想、どのカテゴリもそれぞれがそれぞれの要素に不可侵、不可知の領域を持ちながら、その3なるものとしての一体性、全体性を保つバランス感覚を必要とした世界認識モデルを構成する。
 
 
 
 *** *** 
 
 
 
さて、「大人の絵本」、「大人の童話」。
 
この矛盾を孕んだイメージを持つ言葉は一体何なのか。
 
 
 
大人。あまりにも重たくしがらんで主体をそのシステムの内側に組み込んでしまう基本構造をもっているのが、社会生活や恋愛をメインに扱ういわゆるその大人社会を舞台とした小説である。とするならば、その物語システム内部に捕らわれて流されてゆかない「外側の目線」、相対化する目線を潜在的に保有しているが、童話や演劇、ナンセンスや異界ものというジャンルだと考えられる。
 
 
 
(文学というものが、世界と自分との関係、或いは自分とは何か、という疑問を、さまざまな物語の形として示しだそうとするものであるとすれば、主体が己自体のアイデンティティを成り立たせているシステム、社会性という物語の内側にいるか外側にいるか、これは結構重大な要素である。
 
 
 
優れた文学があるとすれば、それはシステムの内側からのアプローチであっても、その内部から世界の在り方、その認識自体によって生じている軋轢を描くことによって、その外側を示唆する、その世界の枠組みそのものを問い直そうとする視点を色濃くもっている。必ず。)
 
 
 
「オトナの事情」「暗黙の了解」という、システム存続のための論理の隠蔽はここではなされない。
 
ホテルカクタス、この作品の中で、それは論理の隠蔽ではなく認め合いとして許されるものとして描かれている。正統化されるものはない、正義はない。ただすべてはそれぞれが相克しあうことなくその矛盾を折り合わせて成り立っている。…そうしてそのようなところに周りの視線によって内包されるものとなった己の心の中の他者の倫理によって己を否定し損なうものであるモラル・ハラスメントはない。
 
 
 
 
何だろう。ほっとするんだ。
こういう世界の在り方、街の在り方。
 
 
 
 *** *** 
 
 
 
ここから蛇足オマケ。
 
 
 
因みに、主体に内包された他者の視線、倫理、という構造については賢治の「オホーツク挽歌」の次の一節がとてもよく表しているのではないかと私は思っている。
 
 
 
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
 (Casual observer ! Superficial traveler !)
 
 
 
他者の視線が己の一部として刷り込まれ、己自身を否定し苦しめる倫理となる構造である。
 
 
 
では、そのどこまでを己、主体としているのか?
 
それを見極めようとするとき、主体が主体自身を解体することが必要となる。透明な自我。超越した自我。それを得るために必要なのは、アイデンティティを破壊したところから始める、「わたくしというげんしゃう」意識であろう。
 
 
 
…とまあ話が賢治に行くとつい風呂敷が広がりすぎてしまうので、これはまたいつかぼちぼちね。
 

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2017年2月 6日 (月)

闇太郎

川上弘美はおもしろい。

ダイナミックな作風の変化があって(おそらく意図的な。)実験的なものもあり、作品によって当たりはずれ、というか好き嫌いが別れそうな作家さんだと思う。だけどやはり、そのどれもがどこか私の心を揺さぶるところをもっている。

私は個人的に初期の作風が好きである。異界に近しい不可思議さを濃厚に打ち出した幻夢の世界。漱石の夢十夜を思い出すような。

彼女はそして、よくも悪くも、根っからの、ものすごい振り切れたレヴェルで「女性的な」作家だと思う。

根源的な女性性、とでもいうのだろうか。規範、秩序、確固たる唯一の現実とされている男性社会を、その成り立ちそのものから無化していくようなようなかたちでの、彼女の描く異界性とエロティシズム。それは男性作家がおなじものを描くやりかたとはまったく異なる道筋で世界を描く。自我やアイデンティティという自明だったはずの枠組みをラディカルな形で無化してみせるのだ。この世の外部、異界、夢、官能、そして、追っても追っても限りなく果てない空虚な真理にも似た、切ない、愛のかたち。

 ***  ***

…で、「闇太郎」。

これは、2001年度谷崎潤一郎賞受賞した「センセイの鞄」の舞台になった居酒屋のモデルだと言われている吉祥寺の老舗である。

こういう店で、主人公ツキコさんのようにすっと座って麦酒を頼み、お手拭きで手を拭いつつお品書きを眺め、「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう。」とかかっこよく注文してみたい、と思っていた。(センセイとの出会いの場面ね。)(ミーハーである。)

「センセイの鞄」は、15万部を売り上げたベストセラー。ドラマにもなったりして、おそらく川上弘美作品の中では最もポピュラーなもの。海外でも高く評価され、数々の賞を受け、ノーベル文学賞候補にもなったという。繊細で切なくこまやかな情感を湛えた…なるほどいかにも女性受けしそうなピュアな恋愛小説である。(そりゃあいいとは思うけどコアなファンとしてはまあポピュリズム方向、と言いたくならないこともない。じくじく。)

で、川上弘美でも村上春樹でもそうなんだけど、作品の中で描かれている食べ物の描写が素晴らしい。児童文学の中での憧れの食べ物もそうだけど…大体、食べ物が印象的に魅惑的に描かれている作品っていうのは、それ自体が素晴らしく魅惑的なものなんである、と私は信じている。

 ***  ***

だからねえ、「闇太郎」。
行ってみたかったんだよね、吉祥寺にあるんだもんね。

で、どっこいしょ。

ひとりじゃ怖いので、居酒屋慣れした友人引っ張り出して、土曜の夜の大冒険、嬉し恥ずかし闇太郎初体験。
Yami
土曜の夜、開店早々客で満杯。

引き戸を開ければ別世界。ふわりと包まれる、あたたかさ。その独特の温もり、陰影の織りなす小さな異次元。見ず知らずの人々がほんのひととき小さな空間に集う、親密な居酒屋空間。

…コレだよ、これ。これが知りたかったのだ。
Yami2
隅っこの席に、麦酒すすりながら、ぼんやりとこのあたたかな雰囲気に身を沈め、奥の小さなTV画面眺めたリしてる白鬚おじいさんとかいたりすると、いやもう、こういうのってたまらない。

…彼の人生のその禍福の末のこのひとときの味わいのことを考える。

隣の若い恋人同士、アベック(死語か…)の驚くべき善良ないちゃいちゃぶりも非常に興味深かった。カレシに甘ったれた声の可愛い女の子、カノジョがいることでしやわせいっぱいの、一般的にはあんまりイケメンとはいえないおこちゃまな男の子、二人で手を重ねて自撮り写メやるわひと目はばからずチュッチュってやってはとろけそうな笑顔で。…この先この二人が末永くって可能性の薄さを考えたりしちゃったけどね、それでも、それだからこそ、こういう人生の一コマのリアリティを感じるのってのは…楽しいものなんである。すべてを肯定できるような気持ちになってしまったりするんである。

それは、いろんな人生あってヨシ、な気持ち。かなしさもさびしさもやすらぎもよろこびも、日々さまざまに何があっても、土曜の夜のひととき、人々がこんな風に居酒屋で過ごすことの許される、平和な国でさえあればいいんだ、っていうような。

Yami1_2
おでんぐつぐつ。

Oden
湯気もご馳走なんだよね。

Na
菜の花とか烏賊納豆とか居酒屋メニュー大好き。

Sava
酔っ払いネコ~。

…創業以来40年以上、親父さんが変わらず一人で切り盛り、カレ、すごい貫禄である。ここでは店主が客に愛想よく如才なくとかそういうのは気持ちがいいほどなくって、客が皆店主の顔色を伺ってしまうんである。イヤイヤなんというか、笑ってしまう。貫禄の力かねえ。


…トイレの壁に川上弘美の写真と記事が貼ってあったよ。(トイレで写真撮るヤツ。)
Yami3
あの物語の時空を一生懸命思い出しながら脳みそを居酒屋モードに合わせ、ほろほろと酔っぱらった立春の宵。

Aka
帰り道、ものすごく怪しいメニューの赤提灯が。興味津々。

気安い友人とたくさん話して笑って、楽しかったけどくたくたのふらふら。(翌日曜は声も出ずぐったり、一日じゅう宿酔いの雲の中。居酒屋行って疲労してちゃしょうがないなあ。)

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2017年2月 2日 (木)

銀河鉄道の夜、あれこれ

去年、友人の息子さんの読書感想文に関して質問されたことがあった。「銀河鉄道の夜」に関して。

その日の日記。

 *** ***

朝、でかけようとしたとこで、iPhone君がぽよ~んと鳴った。
大学時代の友人からメッセージである。

彼が次男君(中一)の宿題の読書感想文に付き合ってたら、賢治の銀河鉄道の夜のことで質問された。わかったら教えてって。

「なんで鴈がお菓子になるのか?」
「なんでジョバンニの切符だけ特別なのか?」
「ほんとうの神様はたったひとりなのか?」

…いやそれぽんと聞くか?
「なんで?」ったってなあ。(知るわけないだろ。)

それ全世界の先鋭の研究者がはりきってカンカンガクガクやってるとこなのヨ中学生。

だからな、こんな風にあっさりきかれてもなあ中学生。
自分で考えろよ中学生。

答えなんかないんだからさ。
(ってかお父さんどこまでいいパパなんだよ羨ましくて目頭熱くなるぜよこのやろう。)

…ということで、マンションの大規模工事説明会でぐったりくたびれた後、美しいお天気の土曜日、家にこもる気もしないので、街の公園のベンチでただぼんやり風に吹かれていた。

平和に土曜日を楽しむ人々を眺めて緑の空気を吸って冷やし珈琲をすすりながら子供の本を読んで。

そいで、ぽよんぽよんと思い出したようにいろいろ聞いてくる彼に返信しつつ考えた。
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晩夏だ。

蝉が鳴いて風が吹いて水面がきらきらしてるのって幸福だな。


そしてやっぱり賢治を考えるのは楽しい。


今年は生誕120周年で、花巻ではいろいろ記念イベントがあったらしい。素晴らしくうつくしい銀河鉄道の夜イメージのイルミネーションやらなにやらやってたらしい。

賢治記念館は山の上の素敵なとこにある。カレが実際弾いていたというかっこいいチェロなんか飾ってあった。

行きたかったな。
…イヤ、行きたいな。

人生もうだめだと思ったときは、とりあえずあきらめる前にもう一度あすこへ行ってからにしよう。

午後、銀河鉄道さっと読み返してしばらく目をつぶっていろいろ思い起こして考えて、少しでも中学生の参考になれば、とあれこれ即席で殴り書きして送り付けておいた。

親の方にはそれでもそれなりに結構納得してもらったみたいで嬉しい。

もう寝よう。
明日は雨。


 *** ***


…で、さっきメールの記録で探し物してたら、そのときの答えのメモがあったので、あげておこうかな、と。

 *** ***

①雁を食べたらなぜお菓子の味がしたのか。

まず、この銀河鉄道宇宙(ジョバンニの夢オチとなる幻想世界)では、すべては象徴的なものである、形而上的なるものであるとして意味を考えた方がいい。

この「鳥捕り」の意味はものすごく議論されてて、難しいんだけど、だいたいが「市井の商売人、俗人(尊敬できるわけでもないがごく普通に親切な人)」のイメージ、その象徴として登場しているという風に考えてもいいんじゃないかと思う。

ジョバンニが馬鹿にしつつ、その人の差し出したものを享受しているという後ろめたさや憐みのような気持ちの表出は、賢治が、俗人、大いなるもののことを考えず、ただ閉ざされた目の前のことだけ、ごくあたりまえに繰り返す日々を稼ぐ人々への複雑な思いを表現してる、とかね。

で、どうしてお菓子になるのか。

賢治はが天上世界やファンタジー、岩手県でなく楽しいファンタジーワールドとしてのイーハトーヴォを童話として描くとき、そこの食べ物は、日々の身体が生きるための糧(穀物や肉、食事的なもの)ではなく、むしろ心を喜ばせる夢の力のたべものが選ばれる傾向がある。果物や、お菓子。

タイタニック号から乗り込んできた姉弟のシーンでは子供たちのために、ひとりでにくるくると皮がむけてパイのように食べられるりんごが出てきたよね。別の童話だけど「ひかりのすあし」での神さまの差し出す魔法のチョコレート、妹の詩をうたった詩「永訣の朝」では愛妹の魂の天国での食べもの「天上のアイスクリーム」を祈る。(異稿ね。あとから「兜率の天の食」っていうかっこい言葉になおしたりしてる。どっちも賢治らしい。)

だから、ここでの食べ物は、現実の、なまなましい残虐さをもった生き物の肉としての糧食、鳥ではなく、天の川がぼおっと凝ってできた観念としての鳥、その自然の一部としての美と恵みのイデアの部分だけとりだした心の糧として表現する。肉を食う残虐さを浄化した、肉体の原罪の持つ矛盾を超えたところにある、イデアの食べもの。純粋に甘い心のよろこびのチョコレート。(ハーゲンダッツのCMじゃないけど、「幸せだけでできている」。)

賢治の時代、チョコレートっていうのはすごく特別で貴重な食べ物で、すごいお金持ちがたまにしか入手することができない、ってレヴェル。決して日常のもの、腹を満たすための食べ物じゃない。賢治の作品の中によく出てくるよ。特別の食べ物として。

②なぜジョバンニだけが特別な切符なのか。

ズバリ、主人公だからです。

…っていったらそれでおしまいなんだけど、カムパネルラもかおる子たちも、みんな死者、或いは幻想世界の住民。それぞれ、死後の国、(あるいそれはキリスト教の国)へ、その行き先の定められた切符、或いは鳥捕りや灯台守、他の、日々の生活に埋もれ仕事を定められた毎日を生きることを受け入れた人たちの人生を象徴する切符。

でもジョバンニが持っているのは限りなくただひたすら真実を、愛を、ただしいものを求める心、それはひたすら無限の可能性。果てない探求のための切符。死者たちを見送り、生活者を観察し、その人生を学び、それぞれの「ほんとうのさいわい」を考える。さまざまのひととその駅を見ながら学びながら真実を探りながら悩みながら現実を生きつづけなければならない者。

…っていう切符。こんな感じでどうかな。

「こいつはもう、ほんとうの天上にさへ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次なんか、どこまででも行ける筈でさあ…」

ただしきものよきものを探し求める心の、そして知の力、それはあらゆる可能性に開かれた力である、と。

③本当の神様はたった一人なのか。

クリスチャンの青年とジョバンニの神さま談義があったよね。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」

かみ合ってない。「ほんとうの」「たったひとりの」の定義が食い違っている。

クリスチャンの青年にとっての唯一神はキリスト、エホバ、創造主。
だけど、ジョバンニの神様は…否定形でしか語ることのできない、ただ、なにか絶対のもの、これ、と言ってはいけない真理、この世界を何か美しい「法(ダルマ)(論理)」で統べている、その世界の在り方そのものの「正しさ」への信仰、或いは、祈り。

これは賢治の作品から例を引くと限りないし、あんまりにもでっかすぎてここでは簡単にしか言えないけど、銀河鉄道の夜の初期形(ブルカニロ博士編)」のこのへんは参考になるんじゃないかな。(これは初期形とかいわれてる、いわゆる異稿。出回ってる「最終形」では最後のこの理屈っぽい博士んとこは削除されてる。)

「だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひ とのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがい ゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもい っしょに行けるのだ。」

「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくは どうしてそれをもとめたらいゝでせう。」

「あゝわたくしもそれを もとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そ して一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。 水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだ れだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだ から。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀 と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめ いめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれど もお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだ らう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。 そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉 強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばそ の実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやになる。」

あらゆる宗教のもつ美しい部分を否定することなく、その主観の相克による倫理の相対性に苦しみながら、そのレヴェルを超える、矛盾を止揚する多元宇宙(この世界モデルは仏教的)(インドラの網、と呼ばれる宇宙構造だ。)すべてを統べるイデアのレヴェルへ、その定義を、科学としての絶対の世界観を求めていたんじゃないかな。

ブルカニロ博士の最後の科白はこれ。これはさっきの切符の話ともつながってくる。少年や未来に託した祈り、のような賢治の心の熱さが伝わってくるようだ、

なんて、思うよ。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中で なしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて 行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのそ の切符を決しておまへはなくしてはいけない。」

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2016年10月 1日 (土)

朝の憂鬱。カミュ「異邦人」

恐れていた朝は恐れていた通りやってくる。


空いっぱい奇妙な砂色の光で満たされる瞬間を見た。これが朝か。


不吉な光の中で、カミュ「異邦人」について考える。

昨夜読み終えた。実は今まで通して読んだことはなかった。(知識としてショッキングな出だしや有名な一節を知ってたくらい。)

…有名だけど読んだことないっていう古典は多い。(そればっかりだ。)特に海外のものは「ガイジンはわからない。」というハラがあって敬遠してたんだが、ふと読みだすとのっけからぐいっとひきこまれるような面白さだったので正直おどろいた。

「今日、ママンが死んだ。」Aujourd' hui, maman est morte.


…こんなに面白いとは。そして一気に読んだらちょっとヤラれた。

どうしておもしろいのか。こんなに心が哀しみながら安らぐのか。…ひどく難解ではあるんだがどこかで何かがわかるような気がしている。それを考える興奮とその静けさとのアマルガムがおもしろいという現象なのか。

難解さとシンプルな面白さがひとつの律動をもって言辞の美しさを構成している。そのまっすぐな言辞は不思議に心を鎮めてくれる。


ムルソーの非常に奇妙な形なのにナチュラルである不思議なつよさをもつまっすぐさ、誠実さ。「ごく普通の社会人」としてのその「普通」さ。

(文庫の背表紙に書かれた内容紹介には「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソー」とあるがこれはまったく納得できない。彼は終始一貫している。『通常』の解釈なんだろうけど。)

そしてそこにあぶり出される異様な冷淡さ、無関心。「彼に欠けているナニカ」についてあれこれ思う。「己の内側に生ずる内発的自然」的なるものに対する異様な誠実さ、その他に対する傲岸なほどの冷淡さというその奇妙なつよさとセットになったもの。

それは隠された恐怖のような感情である、ということについて考える。ラストの爆発的な怒りとそれによる浄化の感覚はその発見と昇華なのではないか、という命題について。

これはなんだろう。その強さは不条理を突き抜けるものということなのか…?

今すっきりとその構造、論理は見えていない、わからない。でもおもしろい。


とにかく私は己の心がムルソーの心理にあまりにもたやすく共鳴することにかすかな安らぎと、それと同時の戦慄を見出した。

そしてそれは司祭に対しても、なのだ。対照的な彼ら二人の言動に対し、同じ尊さを、羨望を、尊敬を、感じた。彼らは真理を求める、一つの真理のためにはおそらく死をも選ぶ積極性を持った人間である。(ここで真理とは解放、救済、幸福と同義のものとなる。)

すべてが擦り切れてゆくような痛ましさ、独房のなかでのやりきれない日々の描写の後、なお失われないムルソーの真摯な己への誠実さ。その極限状態において牙をむく司祭への反感、何もかもそぎ落とされたその研ぎ澄まされた純粋なつよさの凄み、双方の信念と矜持のぶつかりあいは、…圧巻だ。

白井浩司の解説のこの言葉が深く胸の中に刻み込まれる。
「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなく出発点であることを知らなければならない。」

たくさんのことを考えさせてくれる。

司祭は司祭のやり方で、検事や弁護士は検事や弁護士のやり方で、そしてムルソーはムルソーのやり方で。その勝利の賜物としていずれもただひとつのものを目指している。誰の中にもこの全員がいる。

(私は司祭かムルソーになりたい。そして誰にも何にも裁かれる必要はない。)


とにかく今朝、目がさめて私は生きている。
正しさと幸福は自ら求め構築しなければ得られない。そのためにはとにかく今日を生きなければならない。

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2016年8月 6日 (土)

廃墟と希望(日曜美術館「花森安治」・三木卓「惑星の午後に吹く風」)

普段ひとりだとなかなかみられないんだけど。日曜美術館。通りがかったら母がみてたんで、つい一緒にみてしまった。花森安治の特集だったのだ。

(花森安治は「とと姉ちゃん」の花山伊佐治のモデルになった天才編集者。「暮らしの手帖」編集長。)

で、面白がってみてたら、いきなり心に何かコトンときた。こないだ読み終わってからずっと心にひっかかっていた三木卓「惑星の午後に吹く風」を思い出したのだ。



何か繋がった。コトコトと脳内でいろんな論理が動き出しかたちづくられて繋がって生成されてゆくこの感じ、不透明で混沌で味気なかった世界が自分の中でいきいきと意味を持って物語をもって立ち現れてくる感覚。

うわあ、…おもしろい。

 *** ***


花森安治による「暮らしの手帖」創刊

戦 後、物質的にも精神的にも、崩れかけながらも信じていたひとつの世界がついに完全に崩壊した、8月15日。そして映し出される、すべてが破壊された後のよ うな廃墟の風景。何もかもが失われた世界。ひとつの世界の終焉の後の風景だ。(もちろん実際には破壊されていない地域もあったから世の中一応まわっていた んだろうけど。)それは、物質的な廃墟であると同時に人々の心象風景を象徴するものとしての廃墟でもあった。

戦争、男性中心主義による大 いなる精神論、壮大な国家論に振り回された結果がこの無残な荒廃であったことを実感する花森。復興の闇市でフライパンに感動する花森。「本当に大切なも の」を女性目線の生活主体の視点に変えてゆくパラダイムシフトの瞬間である。新たな価値観による世界の復興、再生への模索。

そして創刊さ れた「暮らしの手帖」の表紙は、今見ても古びた印象を持つことなく、非常にうつくしい。(私はもともと「暮らしの手帖」をものすごく高く評価している。 並々ならぬゆるぎなさ、そのおセンス、その信念。古き良き昭和の夢の魂を永遠にもっている。)(あのフォントと言葉遣いには問答無用に説得されてしまうの だ。)

花森はもともと非常にハイソサエティな育ちであり、ハイカラさんであり、芸術家肌であったという。挿絵は深みがありながら明るい色 遣いで、西洋風の可愛らしい夢のおうち、街並み。お洒落な部屋、食卓を描いたもの。夢のような理想の家族の、あたたかで豊かな心濃やかな暮らしへの想像力 を掻き立てる。

しかしそのなかには瓦屋根や和風テイストの小物がひそやかに配置され、そのために独自の無国籍な夢の世界を演出している。これはジブリアニメの無国籍なエキゾチシズム演出の手法と酷似したものだ。

復興の力へと直結するものである、豊かさへの夢、欲望。この時代に求められていたもの。

この雑誌は、夢と希望の力を育むための指標としてのそのうつくしい理想のヴィジョンと、実際的に役立つ暮らしの知恵の記事の二つの車輪によってそれを牽引した。「画像や言葉による夢、希望、それらによって掻きたてられた心の力に裏打ちされた現実の生活」という図式である。

 *** ***


さて翻って三木卓「惑星の午後に吹く風」。

これは、近未来が舞台のSFである。

ぐいぐい読ませるとか重いとかものすごく切ないとかいう激しい作品じゃない。だけど個人的に何だか今の精神状態にしっくりきてしまった。ただ静かな気持ちになる、その静けさと寂しみ。

瀰漫しているのは、未来への希望のない終末感。ほのかなほのかな絶望感。既に終わった世界の残滓のような日々。諦念の中、ただ静かに繰り返され消費されていく日々。

イメージとしての「廃墟」だ。(舞台となっている未来世界は実際には廃墟ではない。高度に文明化された管理社会である。)(主人公のまなざしを通した心象としての世界イメージのことね。)

こ の作品、この終末感のつかみきれない構造、この得体の知れなさがどうも気になっていた。で、ここに、先に花森の例で挙げたような、戦後の激しい喪失感と実 際の廃墟の風景がことんと重なったというわけである。(こちらには未来への復興の希望の要素はないが。)喪失、廃墟のイメージを媒介にして、先の例の激烈 で暴力的な終末感の構造を、この緩やかな、真綿で首を絞めてゆくような老化、衰退としての終末感に重ねてみると何か見えてくるような気がした。

そうして読み直してみると、若い世代に託された「再生」への祈りのようなモチーフがきちんと書き込まれていることに気づく。或いは、「救済」への。

それは例えば戦後の廃墟においては花森が提示してみることのできた未来への夢と希望のヴィジョンを求めるやるせない祈りである。

なぜ「やるせない祈り」なのか。

それは、前者においては力強く現実化するものであったものが、後者においては既に失われた可能性として認識されているからだ。瀰漫する淡い絶望感の所以はここにある。先がない、未来のない感覚。

それは、これから新たな価値観をもって復興するべき若い可能性を持った時代であるか、考えうるすべての発展を味わい尽くした後、輝きに満ちた未知の未来への夢を失い、既に疲弊し老化しつつある時代であるかの違いである。



若 いころはエリートで、省庁関係の研究職にもやりがいを感じていたが、ふとしたことから出世コースから外れ、妻に去られ、隠遁生活のような自然保護区管理人 として暮らしている50歳の主人公。(未来人の寿命は長く、肉体的にはまだまだ盛りの世代。まだあと50年は壮年期とされている。)

ここに転がり込んできたのが、20世紀に冷凍され解凍されたばかりの若い女性アマリア、そして、自殺志願の若者レッドウッド。

アマリアはその時代の社会問題となりつつあった、若者世代の、性的欲望の淡さ(による人口の先細り予測)の傾向に反し、あらゆる男性の欲望を激しくかきたてる性的魅力を放っていた。

レッドウッドもまたその時代の社会問題となりつつあっていた若者の特徴を色濃くもっていた。生命への執着の淡さ、知識層に如実な自殺願望。そして彼もまたアマリアに恋い焦がれ、二人は恋人同士となる。

(主人公チャンチンもまたアマリアに焦がれており、複雑な関係ではあったが三人はよい関係を保っていた。)

レッドウッドの死後(悲劇的な自殺)、主人公チャンチンを彼の兄が訪ねてくる。彼は時代の疲弊についてチャンチンと語り合う。哲学的な問答である。

レッドウッド兄(以下「兄」)はひとりの人間の成長過程を人間の歴史に重ね合わせてみせてから、こう言う。

「この時代の人間はもう、(中略)死までの未来が実体として見えてしまっている。」

「ああ、それはそうかもしれない。考えてみれば、人間の歴史とは(認識による)限りない時空への伸長の歴史だったということができる。或いは意識のなかでの対象の縮小化の過程。」

「そうです。で、そういう過程を生じさせてきたのは何であるかというと(中略)つまるところ人間の認識の能力です。」

兄 のいう「時空の伸長」とは、例えば小さな地域の認識から地球規模の認識へ、そして宇宙規模へ、と限りなく人間の認識能力(そして支配能力)が拡大していっ たことを指す。世界は認識されてゆけばゆくほど、その未知の領域に属するものである深淵、威厳、威光、謎やロマン、ファンタジー、といった夢憧れを失って ゆくものであることを言っているのだ。不可知、神の領域が失われてゆく過程。(「対象の縮小化」)

兄は、人間は認識しつづけることによって発展してきたが、どのような発展もその成果よりも遥かに大きな闇を同時に生じさせてきた矛盾に似た原理をも語る。そして、あらゆる認識の外側にある超越的存在(神)をその認識の場から排除したことを語る。

闇は無限に広がりつづけるのに、憧れを生むはずの有為の認識対象は縮小化する。

ここで闇とはつまり、超ー外部としての絶対の存在、神によって保証され、祝福され、救われるということができなくなった場所のことではないのか。認識の限りない伸長が無意味であると感じたときの、その未来と希望の失われた閉塞感がうまれるどんづまりの場所。

チャンチンはこの話を聞いて、己の認識による宇宙の存在のありかたを思い、そこで自分が宇宙の運行における神の不在を感じたときの、その意味のなさに絶望したことを再確認する。そしてさらに、己の認識の外側にある無限に思いを馳せ、そのとき激しく恐怖する。

ー虚無。

「ぼくたちは、超越的なものを信じることで身を守るということをしてきたのに、そのマントを脱がざるを得ない方向にどんどん進んでいるといわれるのですね。」



チャ ンチンは独語する。「今のぼくは幼いころよりはるかに生きて在ることが苦痛である。幼いころの成長しようとする意欲は、まわりのことに目をつぶらせた。ぼ くはそれに便乗して生きていった。しかし、ぼくを駆動するエネルギーが減衰の方向に向かいつつある今、超越的なるものは信じられないのに、バッハになぐさ められたりしながら砂を噛む思いで生を維持している。」

己が、過去、希望のあった時代の遺物(音楽、インテリア、芸術、飲食物)を愛好し、そこに存在した「未来への希望」の痕跡によって、その逃避によってかろうじて慰められながら生きていることの自覚である。

さて、ここで、絶望と諦念からの解放、異なる光、希望を示す記号がアマリアである。発展の途上にあり、認識を超越した神をも信じていた過去の女性、クリスチャンであり、男性を救う女性の象徴であるアマリア。

彼 女がチャンチン、レッドウッドはじめ現代の男性をすべて魅了する理由はそこにあった。未来に向かう希望の力を有していたものとしての過去に属する女性。神 に通じ、そして求めるものを受け入れるものである未知の、憧れの対象としての異性の象徴、それが「希望」としてのアマリアである。

この、希望の存在による未来への駆動力という構造は、別の章、チャンチンの学生時代の恩師の存在の言及の個所にも繰り返し示されているものだ。

その恩師から「学ぶということの奥の深さを身をもって教えてもらった」が、「今振り返ってみると、あの先生はほんとうはどうだったのだろう、という思いが起こってくる。」

学者としては己自身なんの成果も残さなかったその先生が、数多くの学生たちを感化し育て、偉大な学者とその実体としての成果をも生み出した。

「それは詰まるところ、かれのなかの学問に対するあこがれのレベルが高かった、ということではあるまいか。その結果、かれには中身はなかったけれど、われわれのなかに学問へのあこがれをつくりだす刺激を与えることができた。」

この思考は、チャンチンがレッドウッドのなかにアマリアへの憧れを発見したときのものである。すなわち、「あこがれ(希望の灯)による生きる意欲の発見」という、その「構造」の発見なのだ。

 *** ***


日曜美術館、番組では、最後に花森が好んで描いたというランプのモチーフの絵をいくつか映し出した。

ナレーションで、「世を照らす灯」の象徴として好んだモチーフであったと解説されていた。

この「世を照らす灯」とは、とりもなおさず、個々人の、個々の家庭の、その暮らしの中でのひとつひとつの小さな喜び、希望を見出すための「心の灯」にほかならない

(村上春樹のいう「小確幸」だ。)世を照らすものはその心の希望の総体だ。

人は、世界は、社会は、その各々のレヴェルでの未来を照らす希望の灯がなければ現在を生きることはできない。おそらく。



(老化と衰退の果てにおいて、それは未来の希望を担った次の世代、或いは過去、あるいは、すべてを超越した存在(神)へと託されることで代替される。)

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2016年6月29日 (水)

「大きな鳥にさらわれないよう」川上弘美

Book
冒頭の章「形見」は序章だ。
 
クローン技術を駆使した工場で生産される人間や動物たちで構成された不思議な町の風景が描かれる。
 
この不思議な設定の下で暮らす女性の語り、生活風景を序章として、夢の断片のようなSFじみたさまざまの世界設定の幻想が展開される。オムニバスで断片的に語られる物語が次第につながり、トータルな作品世界が構成されてゆく。
 
いわゆる普通の家族制度をもつ町もふくめたさまざまな世界の風景が章ごとにランダムに描かれる。だんだんと、現代文明社会の終焉から再生を目指すプログラム実行中の近未来世界設定であることが見えてくる。
 
多様な世界があちこちの視点から語られてゆく中で、見えてくる全体の構造。それは、クローン生産される人間である「わたしたち」が「見守り」という、(普通の生殖によって営まれている)町の人々の生活を「見守っている」という共通した設定である。
 
「見守り」たちは遺伝子操作されたたくさんのクローンとして、複数のコピーのひとつとして生まれ、管理され育てられている。育てているのは、人間を育てる役割 を担ってはいるが人間とは違う謎の存在である「母たち」。彼女らの人格もまたコピーされたクローン、均一のもので個性はなく、ひとりの母は「母たち」とい う全体の呼称でしか示されない。
 
ここには、同一の遺伝子でたくさんのコピーされた「わたし」が同時存在する。同じ家の中で育てられている、数人のわたし。わたしはわたし、あなたもわたし。わたしとわたしが会話をする。代々のわたし、わたしたち。この作品で は、この一人称そして二人称の意図的な乱用、混乱によるアイデンティティの枠組みの崩壊の仕掛けがなされているのだ。
 
こ の設定により、己の定義の危うさが暴露された「わたし」たちは、少数の突然変異的な「わたし」以外は唯々諾々と与えられた日々を過ごし運命を受けいれ代々 の「見守り」としての役割を担ってゆく。己の個性に執着しない。ある「わたし」たちの集団においては遺伝子管理された範囲内での実験的な生殖が行われる。 多くの女性の「わたし」に生殖のための少数の男性が共有されるシステム。
 
複数の「母たち」に育てられる複数の「わたし」たち。そこに、家族や男女、親子の関係の、究極まで問い詰められる愛のかたちのイメージがあぶりだされてくる。
 
成長した「わたし」たちは、世界を管理する管理者側に回る。街にとどまり街を監視管理するもの、街から街を渡らいながら調査するもの、その「見守り」たち側の語るさまざまの町の物語。
 
そ れは、異能者を、異端者を、「自分たちと違うもの」を問答無用に憎悪し排除する町の人々の物語、或いはまた、己の中に思いもよらぬ「己と似ていながら違う もの」への憎悪を発見し、その罪業を自覚発見し、正しく善良な生物の住む村落を壊滅させる「見守り」の物語。(「漂泊」)
 
どの章にも、必ずざらざらとしたやるせなさ、疑問、ひっかかりを感じる箇所がある。理不尽のひとことでは言い尽くし難い、答えのない疑問、胸の中に決して取れないトゲのように突き刺さるひっかかり。どうしようもなさ。
 
例えば、それは特に「漂泊」という章に顕著に感じるものだ。
 
彼 は、遺伝子を変化させることによって絶滅に瀕した人類が新しい人類として進化発展し生き延びてゆく人類存続プロジェクトを担い、世界を漂泊しながら村落を 調査する運命を背負って生まれた。母たちによってそう教育され、新たなる可能性を持った人類を探して旅を続ける。だが実際にその可能性を持った鼻のない三 つ目の人類の亜種の住む村落を発見したとき、彼を襲ったのはどうしようもない嫌悪感だったのである。
 
今まで気づかなかった、己自身の内部に埋め込まれたものである理不尽に気づく。己の中の闇に気づく。この鈍く深い絶望的な痛み。己が無辜ではないと自覚する、その発見の衝撃。
 
*** ***
 
もしもかれらが人間とこれほど近種の生物でなかったなら、こんなおそれは感じないだろうということを、わたしは知っていた。
 
イアンの言葉を、わたしは思い出す。
「自分と異なる存在をあなたは受け入れられますか」
受け入れられると、わたしは信じていた。そうだ。わたしたちと近種の、かつわたしたちよりも優れたものならば、わたしは受け入れたことだろう。
 
*** ***
 
その村落の生物の遺伝子を調べ、99.8%の遺伝子構成の一致を見たとき、彼はこみあげる嫌悪感に吐く。熱に浮かされたような衝動のままに彼らの水源であるみずうみに毒を流し村落を滅ぼす。
 
彼らがすぐれて慎ましく平和に暮らし、寄り添って愛し合い、生きること、世界を楽しみ、世界を害さないで調和しながら生きていく優れた人類のミュータントであることを彼は知っていた。憎しみを知らぬ種族。それは、新世界を開く救済、待ち望まれていたはずの。
 
何 故?何故こうなってしまうのだ、間違っている、わかっている、それでもどうしようもなく踏み込んでゆく、決定的な罪を犯しつつあることを、真っ黒な絶望の 道を自覚しながら。この作品において繰り返し変奏されるモチーフ、異質なもの、己の理解を超えたものへの本能的な嫌悪、恐怖、そこから己を守るための理不 尽な敵意と攻撃。己の拠って立つ既存システムの盲目的な死守、寧ろ、選択される、もろともの殉死。(それが破滅に向かうものであると知っていてもなお、己 を超えた救済よりも滅亡を選ぶ選択。)
 
…これが、「不快さ、ひっかかり」である。
 
己 の中の衝動。…これは「原罪」に通じるものなのではないか。この「どうしようもなさ」。後天的に埋め込まれた論理も倫理もそこでは無力である。無力だがそ れは犯した罪を決して許さない。己の中の倫理によって己の存在は己自身によって裁かれ罰され続けるものとなる。…実に愚かである。自ら痛みを招く。罪を罪 として背負ってしまう。だがこれが人間の原型だ。破滅への道、原罪。罪業、業。
 
…この「業」について考えるのだ。そしてその「業」に己が共振した瞬間、この「見守り」の物語に共振し、涙が出そうに感動する。
 
そ のやるせなさとそれに対して己の中に生ずる葛藤、怒りと痛ましさと憐みとあきらめに、贖罪への祈りに。…だが、何だろう、あきらめの向こう側、何もかもを ただあるがままに受け入れるかたちをとった唯一の救済のようなものを見出す彼方の可能性の光を、その絶望的に逆説的な光の片鱗を私は見る。ここでのどうし ようもなさ、業による罪と罰の物語は、後の章の物語によって、原罪、として、ある種の慰撫を得ることになるのだ。
 
物語の力はここにある。
 
た んたんと抑制された表現でありながら、激しい感情、思想的なアフォリズムにみちた、ポエティックにして叙事詩的、さながら神話のようなイメージがある。一 話一話がそれぞれそれなりに完結したひとつの幻夢のストーリーであり、それぞれが胸えぐられるようないたましさを孕み、何だか訳が分からない、それなのに わからないそのままに、ある種のメンタリティをもつ読者の感情を根幹からゆさぶる、そんな情緒に満ちている。
 
それはどこか冷ややかな理不尽をあぶり出す。その理不尽へのあきらめやかなしみをしずみこませた「冷ややかさ」を敢えて描くことが、その向こう側の抑え込んだ激しい思想性、怒りにも似た強い疑念のエナジイを熱く感じさせる独特の情趣を生み出す基本構造なのだ。
 
 
すべての章がそれぞれの意匠でそれぞれのテーマをもって深々と心を打つ。中でも私は「Interview」が非常に好きだ。光合成で生きている生命体が、旅の途中の「見守り」に語る一人称一人語りの物語。(おそらくこれは「漂泊」において罪を犯したあの「見守り」だ。)
 
お気楽な軽口で既存人類の社会システムの在り方を不思議がる。「業」を不思議がる。外側から純粋に客観視してただひたすら不思議がる。彼らにはそれがないからだ。
 
人 類の亜種であり、睡眠の必要もなく食物を摂取する必要もない、植物的な光合成で生きることのできる知的生物である。(食べものを摂取するタイプも、食べな くても食べてもいいタイプも共存する。)異性生殖はするが、それは個として関わり合うこと、占有や支配、競争や暴力的なものに関わる事態からはほど遠く、 ただ快楽とあたたかさをひととき共有するシンプルさに徹したものである。
 
それは、幼いころ、母親と並んで 陽だまりで一緒に光合成をおこなっていたときの、平和で静かな、ただ純粋な生きる喜びに満ちた記憶を呼び起こすものであると彼は語る。(光合成は彼らに とって生命の喜びそのものであり、うっとりするような満たされる快楽である。眠リ夢を見る恍惚にも似ているともいう。)
 
彼 らは、生きるために貪欲に食い奪い合う必要がなく、生命として生きる執着が非常に淡い。というよりも個としての己への執着が淡いのだ。動物と植物の複合体 でありながら性質としては鉱物のようなイメージがある。例えば命を持ち動くことも可能な鉱物。…地球の見る夢のこごった生命体、といった感がある。
 
*** ***
 
こ の地球っていう星の、はじまりのときからの白昼夢を、おれはいつも見ているような気がするよ。(中略)白昼夢を見る時、おれは地球そのものになっているよ うな気分でいることが多いな。もちろん地球なんていう大きなものの気分はわかりゃしないけど、でも、その一部にまじりこんで、細かな触手をのばして地球の 中に入り込み、地球の感覚をじわじわ吸いとるような、そんな感じかな。
 
*** ***
 
争い?それは一体何なの?家族のやつらが、えらい奴になるために、自分よりえらい奴をやりこめるのと、同じようなもの?
 
*** ***
 
彼らにおいては家族を持つタイプも少ないが存在しているという。
 
*** ***
 
家族の中で育った奴らは、なんていうのかな、こう、おれなんかとはちょっと違う感じがするよ。
ど こが、とは、はっきり言えないけど、そうだなあ、いいかげんじゃないっていうのかな。ほら、あんたが最初におれに言ったじゃない。いろんな普通がある、っ て。家族出身の奴らには、そんなにたくさんの普通がないような、感じがするんだよ。みんなおんなじ普通、っていったらいいかな。
 
家族出身の奴らは、かたまるんだよ。そして、みんなで互いを守りあう。規則を作って、反したものには厳しくあたる。それからさ、(中略)家族の中には、えらい奴とえらくない奴がいるんだって。えらくない奴は、えらい奴の言うことをきかないといけないんだとかね。
 
*** ***
 
家 族とは、社会の最小単位だ。社会の権力構造とそれが生み出すものについて彼は語っている、社会システムが発生維持運営するために必要とされる基盤のところ を彼は顕わにする。規則、役割、そして「異質を異質とし、存在を許しがたいものとして排除する規範としての均質さの必要」。これが集団の中に暮らすものの 内部の倫理観にインプットされてシステムは成り立ってゆく。
 
システム内にいる者たちの抱える不安と彼らの起こす争いの関連について彼は語り、人類の存続のための使命を負って生まれ育った見守りが見守りとして生きる存在理由を彼は問う。
 
*** ***
 
やめちゃったら、そんなこと。
やめられない?運命だから?え、運命っていうより、自分が存在する理由だから?
よくわからないなあ。
(中略)
もっと自分のことだけ考えてたら。自分の好きなことだけをさ。
え、そんな単純な話じゃないの?
ふ うん。おれにとっては、すごく単純なことなんだけどね。人類とか世界とかは、つまりおれたちの集まりなんだろう。おれと、おれと、おれと、あんたと、あん たと、あんたの。人間のことを心配するんだとしたら、その中の自分のことだけ、心配してりゃ、いいじゃない。それだけじゃ足りないっていうんなら、そうだ なあ、あとは自分が直接知ってる人のことを心配(中略)それでじゅうぶんじゃない。それ以上のことなんて、手がまわらないし。手がまわると思ってるとした ら、そりゃちっとばかり、えらそうなんじゃない。(中略)あんたのいうことも、少しはわかる。もっと全体のことを考えなきゃねってね。
それは、頭でわかるってことだけどね。おれは、おれの体がわかったことしか、信じないよ。だから、悪いけど、おれはあんたの言ってることは、なんかこう、ふわふわとそのへんに浮いてる、きれいな虫みたいに感じられる。
 
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確 かな手触りを持った幸福の理念と、論理が組み立てたイデオロギーとしての幸福の理念の違いについて彼は語っているのだ。個を抑圧するものであるその集団 の、システムにおける「正義」への疑念のことを。頭の理解と体(魂)の理解との違いとして。イデオロギーとは、個を抑圧して成り立つ全体の正義とは、実体 もなくただふわふわ浮いて目を楽しませるだけの「そのへんの虫」だ。
 
*** ***
 
重ねられた夢の断片を拾うようにして読み進んでゆくと、次第にちりばめられた断片、ピースが繋がり、多様な独自の設定の世界構造の全体が見えだしてくる。
実 験的に「母たち」や「見守り」による中央管理システムの下に構築されたさまざまなスタイルをもつ各地の原始的な共同体。それらは次第に独自の発展を遂げ、 人類は再び歴史を繰り返してゆく。人々の欲望と祈りに応えるべく奇跡を行う者、教えを与える者が生まれ、街と街の間の交流が盛んになってゆく。それに従い 母たちは存在を消し、見守りたちの会合もまた失われてゆく。
 
「そう、政治と宗教。中央と地方。物流に交流。かつての人類がたどっていったのと同じ過程が、ごく原始的で単純化されたかたちではあるけれど、再現されつつあるんだ。」p207「奇跡」
 
業は歴史を繰り返す。人類救済のプロジェクトは失敗する。
 
***
 
プロジェクトのすべてが明らかになるのは終章「運命」においてである。
 
大きな謎解きの章だ。この世界の成り立ち、母たちの存在の謎を語る章。(最終章「なぜなの、あたしのかみさま」があるがこれは序章の「形見」へとつながって ゆく、共に既に後日譚的な時間軸にある別の物語であり、主編を入れ子型構造にはめこむための前書きと後書き的な性格を持ったものである。どちらかという と別枠でとらえるべき「最終章」。従って、寧ろ最後から二番目のこの謎解きの章がメインの物語の「終章」的なイメージをもってとらえられてもよいと思 う。)
 
「母たち」は有機的な人工知能がクローン発生させた人体に組み込まれ互いに干渉しあいながら統合した複合体である。
 
人類は自分たちが絶滅しつつあることを自覚しはじめたとき、新たな可能性を模索した。そして実験的にさまざまな環境下においた遺伝子のいずれかが突然変異的 な変化を遂げ、絶滅に瀕した人類がその遺伝子によって新しい人類として進化発展し生き延びる解決策を考える。そしてそのための人類存続プロジェクトを発動 する。
 
母たちはその一端を担う。多様な多数の世界を孤立させ独自の発展を遂げるために世界を管理する「見 守り」を管理育成する。適した性格の遺伝子を選び安定したクローンとして育成し各地に派遣しデータを集計する。人類に変異の兆しが見られたとき、異端であ り迫害されるものである異能者を保護し隔離された施設で管理し遺伝子を存続発展させる。自然交配がままならぬときはその遺伝子をまもるためにクローンで世代を継がせる。
 
その「母たち」の、この章はいわば自伝と遺書である。
人類は歴史を繰り返す。その業は、必ず滅亡へ向かうべくプログラミングされている。いかなるプロジェクトもそれに対処しえなかった。その「業」とは、未来に、地球の自然環境に適応し調和し、生き残り繁栄するための新種への希望を、「異質なるもの」を自ら憎み徹底的に排除するものである。母たちはついに人類救済プロジェ クトを放棄し、自爆することになる。
 
ここで、先にあげた「Interview 」と「漂泊」は特に印象深い、と思っていたらやはり「母たち」の語るこの謎解きの章「運命」においてピックアップされて語られている。母たちによって注目されていた、人類存続のための希望をつなぐふたつの遺伝子変異体集団として。
 
*** ***
 
中でも、二つの集団に、わたしは注目していました。
一つは、高度に発達した共感能力をもつように変異した集団。
もう一つは、合成代謝を体内でおこなえるように変異した集団。
(中略)
あなたたち(筆者注・人類)が変化し始めると、不思議と必ず、あなたたちの内部から、その変化を食い止めるような矯正力が働きます。そして、結局はあなたたち自身であなたたちを破壊してしまうのです。
 
一つめの、高度に発達した共感能力をもち、憎しみというものが存在しない集団は、ある一人の観察者によって、あっさりと滅ぼされました。
もう一つの、合成代謝をおこなえる集団の方は、内部から崩壊してゆきました。
(中略)
二つの集団の特徴は、争いというものをほとんど必要としない集団だった、ということなのですよ。
 
*** ***
 
地球環境に調和し、争いや憎しみを知らぬうつくしいスタイルをもった生き物としての人類の未来。
だが激しい競争心を持たぬ種は、「異なるもの」を決定的に嫌悪する既成人類によって滅ぼされ、或いは生殖によって命を繋ごうとする欲望の淡さを原因として自滅する。両者は人類という種の中で淘汰されてしまう。
 
そう、淘汰。
 
人類が人類であるのは、「業」があるからなのだ、という命題がここに顕れている。
 
 
*** ***
 
最終章「なぜなの、あたしのかみさま」。
 
すべてが終わった後、エリとレマという二人の女性が最後の人類として最後の大きな母(実験的に個性を付与された母)によって育てられる。この二人の名は当然 イエスが処刑前に叫んだというあの言葉、聖書(マタイ福音書)の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたか?)からきているものであり、章題に呼応する。
 
エリとレマは神である。
 
エリは生き生きとした好奇心に満ち、未来に通ずる。新世界へに通ずる。彼女は創造主だ。実験を繰り返し、新しい人類をクローン技術によってつくりだすことに成功し、町をつくる。これが序章「形見」での工場によって生産される人類の暮らす町の風景なのだ。
 
レマは、過去に通ずる。静かに繰り返す日々のみに充足する。過去の人類の影(「気配」と彼女は呼ぶ。)を見る。彼と会話し、夜な夜な、過去に存在した地球の歴史の夢を見つづける。そこで彼女は神と呼ばれ、祈りを捧げられる存在となる。彼女は殺到する祈りの激しさに、死の恐怖からの救済を求め欲望の充足を求め るその生命力に圧倒され寧ろ嫌悪する。夢の中で地上に降り立ち激しい生命力に満ちた「男」の存在の前に対象としてさらされたときも激しい恐怖と嫌悪を覚える。
 
彼女は彼らの祈りを理解しない。その不安と恐怖を理解しない。彼女にとって死は恐怖ではないからだ。「気配」の側に移行すること、「向こう側」、滅びた過去の側に移行するだけのことに過ぎない。
 
大勢の人間が「私の神よ、何故、私を見捨てる」(「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」だ!)とつぶやきながら死んでいったがレマがその祈りを取り合うことはなかった。だが、レマは一度だけ過去の夢の中で人間の祈りに同情した。祈りながら死んでいった小さな女の子のその祈りに。
 
*** ***
 
「なぜなの、あたしのかみさま」
(中略)生きていたその間じゅう、子供は常に祈っていたのだ。なぜなの、あたしのかみさま。なぜあたしたちは、こんなふうになってしまったの、と。
 
*** ***
 
「なぜ、こんなふうになってしまったの。」
これが、内側に向かう問いだからだ。己の内側に組み込まれた大いなる理不尽に対する問い。
 
レマは世界が滅びてしまった後の夢の中、荒涼とした風景を眺め、エリの創造した小さな町のことを思う。その町の工場による生殖管理システムの中から川向うへと逃れてゆく例外としての男女や生物(エリは川を境界線として設定し、その外側を放置した。)に思いを馳せる。
 
「いつかこの世界にいたあなたたち人間よ、どうかあなたたちが、みずからを救うことができますように」
 
過去と未来の時空の枠組みが無化し、溶け合ったカオスに通ずる、この終末と滅びの向こう側の静かな世界で、レマのこの祈りはエリの創造した未来に向かう世界に繋がってゆく。…すなわち序章「形見」へとループしてゆくものである。繰り返してゆく、いや、未知の未来への希望を託した変調を加え、螺旋を描いてゆ く。
 
町のシステムから逃れていった男女が新しい大陸でつくりだす、「創造主・エリ」の管理から逃れていった未知の可能性としての新世界の物語は、町の中で神話として語られるものだ。
 
逃れていったもの。逃れて行くものへ託されるあわいあわい荒唐無稽な救済として語られる希望のかたち。
 
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神話よ、神話ですって。なんだか、おかしいわね。くすくす笑いながら、女たちがささやきあっている。(序章「形見」)

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2015年11月 2日 (月)

「岸辺のヤービ」梨木香歩

梨木果歩さんの童話、となるとこれはもう読まないわけにはいかない、少しの緊張とわくわくを胸にページを開く。

そして、やはりその期待が裏切られることはなかった。
Yabi
梨木果歩節全開である。非常に注意深く丁寧につくりあげられていて、吟味されたことばが美しい。イラストもぴったりだ。

こ んなにもやさしい言葉で、深く、たくさんの思いをこめた作品。こどもにもおとなにも等しく、(けれどそれぞれに違った形で。)心の中に大切な「世界のつく り、不条理への疑問」「わからなさの森」を、わからないままにまっすぐなこころのことばで、豊かなかたちで映しこんでくれようとするうつくしい作品だ。

思い出すのは、やはりムーミンの世界。
ヤービというのは、自然界、動物と人間の間にいる、トロール、妖精のようなハリネズミほどの大きさの一族、クーイ族の男の子の名前である。

さまざまの知恵や文化、伝統がその原初の形のままで残っている彼らの暮らし。「ムーミン谷」を思わせるマッドガイド・ウオーター(三日月湖の名)その岸辺の住人達と語り手の人間、ウタドリさんとの交流の物語。

 *** ***

「そんざいのつみぶかさ」生き物を食らって生きてきたことの発見、生き物を殺す者のほう助をしなければ生きていけない状況、罪を背負わなければ生きていけない 己の原罪に気づき、拒食症に陥るヤービのいとこのセジロ、その事実をつきつけてきたセジロの友人、(恐らく)母からの虐待を受けている虚言症の気味のある トリカ。

「大きい人(人間)」が自然のバランスを崩し破壊し、ヤービたちの生活をおびやかしているという、その大きな災厄の影が作品全体をうっすりと覆っている。

現代社会の抱える緊急事態への問題意識を色濃くにじませながら、だがその描かれる風景は、冒険は、やりとりは、あくまでもやさしく素直で楽しく美しい。子供 が冒険や会話や出来事を通して世界の基礎を、知を、愛、のようなものを学んでゆく、成長してゆく、ごくオーソドックスでスタンダードな良質の児童文学だ。

 *** ***

で、私が思うに、この作品の中での白眉は、ヤービの叔父、マミジロの存在である。

詩人である。彼のライフワークは、ある日天啓のようにひらめいた次のような詩の一行の続きがやってくるのを待ち続けることであった。

「それはいかなる事情のもとにか、なされた」

…「マミジロ・ヤービは、この詩句からはじまるぜんたいの詩を完成させることに、自分の生まれた意味がある、とすら思っていました。」

語り手、ウタドリさんはこの一族の中で一番さえない(重要な感じのしない)道楽者の立場であるマミジロの話を聞きながら、預言者、ということを思う。

「も しかしたら、とてつもなくすごい発明(神さまのことです)をし、クーイ族史に名を残す人物になるかもしれない、とこころひそかに思いました(そして、人間 の世界の歴史に名を残した重要人物だって、もしかしたら生きているときはあまり大して「重要な感じ」をあたえる人ではなかったのかもしれない、ともついで に悟りました)。」

光よあれ、という最初の詩句が置かれた瞬間、すべてが始まったように。

世界は、そして認識主体としての己は、その認識がなされた瞬間に、既にもうその存在が「なされている」のだ。在り方は、既に「なされ」ている。理不尽も原罪も、すべては既になされている。決まっている。

これが、始まりだ。

この言葉は、叙事詩的なるもの、神話的なるもの、詩であるから、時空の制約を受けない。それはもしかして未来のことなのかもしれない、とウタドリさんは思う。

まだ「なされて」ないのかもしれない、と。始まりは、未来のことなのかもしれない、と。新たな世界の示唆か、その認識の在り方の方向性を示す預言か。

ううむ。

神の預言とは。この切り口にはぞくぞくする。

 *** ***

マミジロはまたヤービ族の名づけ方について語る。

「ヤービ族の名づけ方」

冒険譚のなかの挿入話のような位置づけにあたるこの章が私は大好きなのだ。

名前。個としての名前と社会の属性としての名前。

今の我々の社会では、さしあたっては、これはファーストネームとファミリーネームの違いのテーマにあたるだろうか。

ヤービ族の名づけ方においては、個としての名は存在しない。名は世代間で受け継がれてゆく。ヤービ家の最初の子はすべてヤービ、次がセジロ、三番目がマミジロ。ヤービに子が生まれればパパ・ヤービと呼ばれるようになる。

詩人マミジロは、それぞれの自分だけの名、個としての名を持つべきなのではないかと主張する。たったひとりの自分が代々のマミジロと同じマミジロ、と呼ばれることの違和感を述べる。

ヤービはその詩人の叔父マミジロとパパ・ヤービの話を傍らで聞きながら、自分はただのヤービでいいな、と思う。

彼とウタドリさんはこんな風な会話をする。

「名まえって、ちょっとしたコートのようなものなんじゃないでしょうか」
「では、ヤービというのは代々受けつがれたコートかしらね。そう、かくれみののようなものかもしれませんね。自分をやんわりおおってくれる」
(そうそう、とヤービは賛成してくれ、)「たったひとつの自分だけのとくべつの名まえがあって、それをしょっちゅう呼ばれるなんて、なんだか、ひりひりする感じなんじゃないでしょうか」

そしてウタドリさんはこんな風に語ってみせる。

「そういえば、なんとか夫人、かんとかのママ、なんていう、なんとか氏とかかんとかちゃんとに関係づけた呼び方も、その奥で『ちゃんとした』だれかがウインクしている、おおらかな『名まえ』のような気がしませんか。」

… この辺が、梨木果歩の梨木果歩たる梨木果歩節なんである。彼女の幻想的なタイプの小説「f植物園の巣穴」「家守奇譚」「沼地のある森を抜けて」等で連綿と 綴られているテーマ、「私とは何か」というアイデンティティの枠組みの正体を問い続け、その牢獄を打ち壊してゆくような解放と救済の色彩を帯びた作品群 の、その深淵な思想がここに響き渡る。

(「海うそ」「冬虫夏草」はこのブログでも試論をアップしております。)

それは例えば、「私は私だ、誰かの妻や誰かの母ではない、私は個として私だ。」という現代の正論の孕む、その深奥に潜む、痛み、のようなもの、「ほんとうの 私」(コートの奥にくるまれた「ちゃんとした」だれか)の孕む虚無の恐怖、コートの持つ虚構を虚構として見極め、それを優しく再構成してゆくような独特の まなざしのことである。

 *** ***

で、だがこの作品、ラストシーンのこの締めくくり方に関しては個人的にはちょっと不満、というか違和感が残っている。

ヤービが、忍び寄る「大きい人」の脅威、自然破壊の影と失われる故郷への思いを述べる箇所だ。

「マッドガイド・ウォーター、がんばれ」
「ヤービ、あなたはわたしにとってはすばらしいマッドガイド・ウォーターの一部です」「ウタドリさん、あなたも、マッドガイド・ウォーターですよ」

(中略)

「みんな、がんばれ」

美しい日暮れの風景が描写される。

…とりあえず、文句のつけようがない。

それは、違和感がない、という違和感。きれいすぎるのだ。わからなさがない。考える隙間を読者に与えない。思考停止のところにいざなってしまう。ここに至るには性急すぎる。まだだ、という気持ち。

ああでもやはり、これ以外ではおさめようがないのだという気もする。

祈りは、その思いの激しさは、ともすれば「わからなさ」を離れ、手触りの確かな明確さへ、主義主張、信念や正義の方向へと流れようとする。或いは安易に読解されるメタファへと、教訓的な「わかりやすさ」へと。思考が固着し停止してまうドグマの場所へと。

そ してだが、慎重にその偏重を自覚し自制し、作品中の作者自身の匂いを排除し、絶え間ないゆらめき、たゆまぬ思考のダイナミクスの方向へ向かおうとする意志 を感ずる。「わからなさ」の抽象性へと押し戻そうとする意識の流れ、その筆の葛藤を、苦悩の跡を痛いように感ずるのだ。

 

…ダメだ。梨木果歩さんの作品のあまりにも激しい作者の思い入れは、問題意識の表出やその表現法、その深淵な豊饒は、いつも私をたじろがせる。テーマとしてあまりにも大きすぎて興味深すぎて短い時間で短文でさくさくとまとめあげることなんかできない。

でもせめてこうやって箇条書きメモ的なるものを残しておこう。きっと続編がでる。そのときまた少しでも進展させた読みを試みてみたいと思う。

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